2015年6月30日火曜日

学者と作家と電話番号

by 井上雪子


七夕やがて台風、横浜にいてもアジアだなあと感じられる大好きな季節が来る。今年は横浜にも積乱雲、立ち上がるだろうか。
大きな事件・事故・災害が続けざまだった6月、なかでもかなり驚いたのは三人の法学者が衆議院において一様に「この法案は憲法違反である」と表明したこと。そして、小説家だという方が沖縄の新聞社に対し「あそこには潰れてほしい」と発語したという伝聞(私語であったとか)。


科学・医学・歴史学、日進月歩で上書きされ、学者・識者が断定を避ける論調も仕方がないと思っていた。だから、憲法学者がそれぞれに事実を積み重ね、客観的な判断を示すために「私性」を捨てきったということにまず驚いてしまった。それは別の言い方をすれば、主体的なわたくし的な自分の意志、「私の思いなど捨ててしまうよ!」という個人の意志を通す強さ重さだ。学問の力、学者としての立場からの明快な断定、その意志の意味をずっと考えあぐねている。

ひるがえって小説家、個人的な主観で物語を自由に紡ぐのが使命の表現者だ。だから自分とは考えを異にする表現、あるいはその活動の自由を無条件に尊重するはず、だと私は思いこんでいた。
たぶん、子どもの頃に何かで読んだこんな言葉のように。
「君の言ってることは認めない、だが、君の発言の自由は必ず守る。」・・・。


それだから、かの沖縄の新聞に対する小説家からの発語の軽さには慄いてしまった。誰の発言であれその自由は保障する、そんな意志をまず置くのが創作に関わるひとではなかったか。根源的に食い違う主観がぶつかってしまったなら、お互いをジャッジできる場所へ向かうだろう。とても長い時間、困難に耐えて、表現者はその道を歩き、より豊かな視点や世界を受け取るものだろう、そう思ってきた。

だが、ヘイト・スピーチ、リベンジポルノ、信仰への揶揄・・・、異なるものへの排斥や攻撃、報復の連鎖、それぞれの自由を護ろうという理想には、すでに銃口が向けられている。
正しさはなぜ一つだけなのか、本当に一つしかないのか、異教徒、異民族、異心をゆるして歩く道がこんなにも見つからないのはなぜか。ともに答えを見つけたくなるような、温かな深い問いを届けることを急ごうと思う。

それでも自分と異なる何かを許容できず、柔らかな力も意志も見失ってしまうことはある。
そんな時には、私は街の上をいつでも流れている大きな流れを探す。地層の露出した崖をぼんやり、真夜中の星空をひっそり、今日の運勢(無料占い)ちらりちらり。圧倒的な大きさ、気の遠くなる長さ、自分の名前も国籍も、生物・無生物の分類もあっと丸呑みにされる。
偶然ではなく、必然でもなく、予測不可能。
それを混沌と呼ぶか秩序と呼ぶか、「彼方の向こう側」と呼ばれる場所はどこにあるのか、それともないのか。誰にもわからないことを思う。魂が呼びだされる電話番号はたぶんそこで見つかる。






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