2014年3月31日月曜日

半透明 

by 井上雪子


横浜・関内の器屋さん「sumica 栖」で、ガラス作家・能登朝奈さんが作る小さなカップを見た瞬間、その美しい詩性にあっと驚きました。
「日々使うための、実用という選び方でいいのですよ」という店主・栗栖久さんの言葉に背中を押され、私が選んだのはかなりいびつで不透明なグラスでした。ひとがガラスに求めるのは透明という美しさのはずなのに。

小さな海をそのまま掬ってきてしまったかのように小さな気泡が閉じ込められ、生き物の気配すら伝えられる半透明。
ゆったりと繊細で冷たすぎない無造作、ほどよい厚みとその重さは安心感とよく似ています(安定感ではなく)。
鋳型にガラスの粉を敷き詰め、炉に入れて溶かして成形するパート・ド・ヴェールと呼ばれるこの手法は、紀元前16世紀にメソポタミアで発明されたものだとか。大量生産には向かず、長く途絶えたり、復活したりを繰り返しているものだそうです

大量生産に向かない、古い古い手法がひそかに生きのびる。なんだか、それは私が漠然とイメージする俳句の在り様とよく似ている気がします。私は詩歌には魂の純度の高さ、言葉そのものが自ずと放つリズムや調べを求めているのでしょうが、とりわけ凝縮を強いられる俳句には、パート・ド・ヴェールの磨かれた宝石というよりは、野生の根がひそかに深くながい時間に繋がれて内包したくぐもった光のような、ひとの言葉本来の温かで素朴な力を求めているように思います。
暮らしのどこかに忘れたように置かれ、古臭いと言われながら生き延びる詩型、けれどそのエッジは詩を必要とする人の胸底に深く新しく届き続けるのだろうと思います。

日光をためて夜にひかり始める石のような、積乱雲が海に落とした影のような、ぽつりぽつりとひとつひとつ、けして急がずゆこうと思います。

2014年3月24日月曜日

ポモドーロ

by 西村遼


何事も長続きしない自分の意思の弱さにほとほと愛想がつき、意思を強くする方法がないかネットで探したりしている。この時点でいかにも意思の弱い男という感じだが、いろいろ試しているうちに、かろうじて一つ自分に合っているかもというやり方を見つけた。

勉強か何か継続的な日課をすると決めたら、まずタイマーを15分あるいは25分にセットし、タイマーがカウントしている間はそのことだけに集中する、という時間を作る。ここで大事なのは、一定時間行うということが目標で、その質は一切問わない、というルールだ。たとえば語学学習なら、15分、開きっぱなしの教科書をぼへーっと眺めているだけで、実際には一行も頭に入ってきていなくてもいっこうに構わない。人間は習慣の生き物なので、身に付いていないことをする時にはいつも心理的抵抗が働く反面、一度はじめた作業はつい続けてしまうという習性があるので、最初の億劫さや敷居の高さをこの方法で取り除いてしまえばあとは勢いで継続することができるというのだ。そんな簡単なものかとも思うが、なぜか自分には向いているようだった。

気に入った理由はたぶん、「ポモドーロ法」というその名称だ。なんでもイタリア人の作家が考案したそうで、スパゲティの茹で時間をはかるキッチンタイマーを使って自己実現をしよう、みたいな趣旨らしい(ポモドーロはイタリア語でトマトのこと。公式サイトにはトマト型のキッチンタイマーを使う動画が紹介されている)。その由緒じたいがなんだかテキトーな感じで良い。

やり方自体は極めてシンプルだし、事実古来より数えきれないほどの人が同じようなことを考えて実行している。そんな中でこの人固有の手柄があるとすれば、ポモドーロという言葉の響きによるものだと考えたい。PomodoroというO音の連続によって、おおどかというか、そんなに完璧にやるこたないよ、と言われている気がしてくる。ネーミングは大事だ。
 
というわけでこの方法を知って以来、体調の悪い時や忙しくてサボってしまう時、呪文のようにぽもどーろ、ぽもどーろと呟き、まるでCMの台詞みたいに、「大丈夫、ポモドーロ法は君の味方だ!」と自己暗示をかけている。かなりバカっぽい気もするが、意思が強いこととバカになることとは外からだとあまり区別がつかない。私の意思が弱いのは多分治らないだろうから、せめてバカになることを徹底しようかと思う。

(ポモドーロ法の本家サイトはこちら。 http://pomodorotechnique.com/)。

2014年3月17日月曜日

答え

by 梅津志保


谷川俊太郎さんの「生きる」を再読する機会がありました。
読むのは、小学生以来でしょうか。私は、3月の明るい午後の日差しの中ゆったりと読みました。それは、国語のテストの終了時間に焦るようなこともなく、クラスの友人たちの前に立ち、一人朗読するような緊張もなく、解き放たれた時間の中で。そして、小学生のときには到底分からなかった、たくさんのものを受け取ることができたのです。

「いま生きているということ それはミニスカート」
小学生の私は、この意味を全く分かっていませんでした。今は、私なりに解釈すると、これは、文化を意味しているのだと思いました。
そして、詩の構成を俯瞰してみると、人間が生きていく中で育んでいくべき「五感、美(文化・宇宙・音楽・絵画・自然)、喜怒哀楽、流れゆく時間、地球、愛」がテーマなのだと気がつきました。こんなにも丁寧に教えてくれていたなんて! 

今またこの詩に出会えてよかったです。
なぜなら、私は、このテーマを大切にして自分が生きているのか振り返るきっかけになったからです。私にとって生きているということは何か。きちんと対象と向き合っているか。
「いま生きているということ それは季語 それは(   )」。穴埋め問題の自分の答えを埋めながら生きていこうと人生半ばにして思うのでした。

2014年3月10日月曜日

びゅんびゅん

by 井上雪子


「そうそう、ちょうど借りてきたものがあって」と、いきなり、素手に手渡された縄文土器。
横浜の海に近い丘の上の歴史資料館をお訪ねし、6000年くらい前の貝塚のお話を伺っていた時のこと。

素手で持ってもいいのかしらと驚きつつ、教科書や新聞の写真、あるいはガラス越しに見るものと思っていたその土器の、おおらかに焼かれた力強さ、素朴なのだけれどとても美しい色形に、圧倒されました。

石膏で繋ぎ合わされた15cm×30cm位の破片とはいえ、ずっしりとした厚み、紅・赤・茶・こげ茶の混じった黒茶色の、彩度の高いくっきりした素焼きの色合い、じつに無造作ながら確かな存在感があります。
竹を使って描かれたという波模様の、びゅんびゅんと迷いのない強さからは、たしかな美意識が伝えられて来ました。

懐かしいような何か、6000年という時間を越えた縄文土器を手に、自分のDNAが誇りを感じていることにゆっくりと気づきながら、なにかその土器の作り手の意志のようなものさえ、私に伝えられた気がしました。

土器は、人が人として暮らしをはじめる大きな節目としてあったものでしょうが、それが祭祀用であれ生活の器であれ、その技術のなかには、はじめから、表現という自覚と美意識があるのだということを、ふいに実感できた時、おそらくはこの頃、世界に名前を与えながら、ひとは人間という自分たちの思いを発見して行ったのであろうことにも思いが到りました。

素手に残された土器の感触の中で、技術と意志と表現について、素朴な強さという温かな思いをいつまでも巡らせていました。

俳句もまた、伝統を重ね、新しさや洗練を求められる表現ですが、捏ね繰り回し過ぎぬよう、句帳の表紙に縄文土器の絵を描いておこうと思います。

2014年3月4日火曜日

とんぷく

by 梅津志保


風邪をひきました。病院で処方された薬の袋はふたつ。ひとつはシンプルに「薬」、もうひとつには「とんぷく薬」と記されていました。 

風邪で朦朧とした意識の中「とんぷく」という言葉をキャッチしました。それは、私の中では「とんぷく」という言葉は、明治、大正、昭和初期の小説の中で、病気で寝込みがちな主人公の枕元に「とんぷく薬」の袋が置かれている(その横にはキレイなガラスの水差しが置かれている。)、もしくは、昭和の初めに建てられた、木造の小さな診療所の窓口から看護婦さんが「お大事に。」と言って「とんぷく薬」の袋を手渡す、とにかくそんな懐かしいイメージを勝手に持っていたのです。そう、私は、油断していたのです。平成26年、初めて「とんぷく」という言葉と自分が向かい合う日が来たのです。 

はじめは、ぼんやりとした頭の中で「とんぷく」という文字の持つ、どこかのんびりとした、平仮名のゆったりとした響きが面白く、薬袋を見るたび頭の中で「とんぷく、とんぷく」と呪文のように繰り返していました。また、「頓服→頓挫、あぁ~」とネガティブに連想し出し、今思えば、少々危ない一線を漂っていました。 
そのうちに、昼間のあたたかい部屋で寝ている幸せや薬袋にあたる日光の清潔な明るさを心地よく思えるようになりました。自分の心と身体が、風邪という悪事から抜け出し、気が満ちて、心の広がりを感じ、回復に向かっていることを実感したのです。 

今回の私の風邪は、とんぷく薬だけで治ったのではなく、「とんぷく」という言葉にも助けられ治ったように思います。文学、詩、平仮名、片仮名の言葉が持つユニークさ、力強さ。
自分の身体が弱っている、そんな時こそ、心には文学や詩の栄養ドリンクを注入したいものです。