2015年10月23日金曜日

迷惑をかけても、かけられても

by 井上雪子


3~4日前のことすら記憶が曖昧な状況で、どちらが先だったのか定かではないのだけれど、佐野洋子さんの『100万回生きたねこ』と、『ヨーコさんの“言葉”』を続けて読みました。

意図された偶然のように、『100万回生きたねこ』は本屋さんの絵本コーナーでの立ち読み、『ヨーコさんの“言葉”』は貸してくれた方がいて。どちらも時間にしたら5分ほどで一読できてしまうけれど、何回も、何十回も、時間をかけて読み直す、そんな本。言葉がやっぱり詩、「生きる・死ぬの意味」を読み手に考えさせる力を携えている、哲学と言ってもおかしくないほどの力。

『ヨーコさんの“言葉”』の、さりげなくドキリとさせる反・道徳的な言葉。「私『正義』というものが大嫌いです。」、「私いつも、『ハハハ、勝手じゃん』」と言いたいのです。」ママ友や、職場や、学校で、それはとても難しいことになっているけれど。そして、『泣き泣き人の迷惑をひきうけ、泣き泣き人に迷惑をかける・・・』、そのしがらみもまた、人には大切だろうと言う。その度胸の据わったスタイルが、小さな「なあなあ」的安心をひょいとひっくり返す。

そして、100万回死んでみなければ見つけられなかったもの、100万回生きたから見つけられたもの、その幸福な、とても素敵なことをこの世で楽しめばいいんだってことにジーンとする。普通の人が当たり前にできる、それでもなかなか見つからずに遠回りもするもの。いろいろあるよ、100万回の内にはね、佐野さんにそう言われていると思うと、心がちょっとふにゃっとなる。


『100万回生きたねこ』 (佐野洋子 講談社 1977年)


『ヨーコさんの“言葉”』(文:佐野洋子 絵:北村裕花 講談社 2015 年)


2015年10月12日月曜日

蟷螂の眼

by 梅津志保


玄関のドアを閉め、出かけようとした。そのとき、視線だったのか、気配だったのか、何かに気が付いた。花壇のローズマリーの上をじっと見ると、そこには、大きな蟷螂がいた。立派な緑色の体、三角の顔、大きな鎌。夏に見たときは、指先位の大きさだったのに。「大きくなったぞ。」といわんばかりの姿だった。同じ蟷螂であるかどうかは分からないが、とにかく蟷螂が、成長した姿を見せにきたのだと思った。

なかなかこんな機会もないので、じっと正面から見ると、蟷螂の眼は緑色で、吸い込まれそうな美しさだと思った。また、自分を見透かされているような気がした。蟷螂から見ると自分はどう映るのか。

虫の眼の億とあつまり冬青空 高野ムツオ

この句を最近、読んだからかもしれない。そんなことを思った。自分からの視点だけではなく、動物から見た景色はどうなのか、植物の生え方はどうなのか、そんなふうに、対象からこちらを見てみることの大切さ、客観性。また、俳句を読んだ人が、迷わないような読後感がいい、想像がふくらむような俳句とはどういうものなのか、改めて考えてしまった。

自分よがりではいけないことを、この俳句は教えてくれる。同じ時に、蟷螂と同じ場所に立つ、自然の中にいる自分。一時間後に帰宅したとき、同じ場所に、蟷螂はいなかった。その一瞬。姿を見せてくれたあの蟷螂のために、いつか俳句を作りたい。

角川学芸出版編『今はじめる人のための俳句歳時記 新版』(角川学芸出版、2011年)

2015年10月6日火曜日

身体でいたい

by 井上雪子


20代から40代半ばくらいまで、いつでも身体のどこかがひどく痛かった。嘔吐や下痢を伴って耐える頭痛、背中や腰の痛み、腱鞘炎、ひざ痛、心臓まで痛かったりした。30代で五十肩の激痛を知り、花粉症も辛かった。

病院にもよく行ったし、都市伝説も試した。結局、スイミングが良かったのか、痛みの神経が老化したのか、頭痛は間遠になり、気がつけば肩甲骨の間の我慢できる程度の痛みと、外反母趾の痛みが残っているくらいになった。

が、先週、何十年かぶりに思いっきり転んだ。かっこ悪さのなかから立ち上がり、ゆっくりと痛みを確かめ、身体をたしかめた。そして、その夜、思った、「喉元過ぎれば・・・」という日本の諺は、私には正しかったということを。家族が腰痛や足腰のしびれを訴えていても、自分では出来る限りのサポートをしているつもりだった。が、久しぶりの痛みは、自分が他者の痛みにずいぶんと鈍感になっていることを告げた。

時には痛みは痛烈であってよいと思う。明日はゆっくり歩こうと思う。だが人生は短いらしい、時にはちゃんと立ち止まって空の色と同じ色の身体になろう。