2015年2月22日日曜日

自分への距離

by 井上雪子


『客が来てそれから急に買う団扇』、
板書された先生がゆっくりと問われる。
「これは俳句だろうか、川柳だろうか。」
昨年12月、フェリス女学院大学の俳句講座でのこと。

「川柳ではないでしょうか」との声に、 先生が明かした作者は阪井久良岐(明治時代に川柳の革新を行った方だ)。 季節感も挨拶的な趣も諧謔性もある五七五、 虚を衝かれたような戸惑いのまま、 先生の言葉を待つ。

「川柳の本質は『穿ち』、 作者の感動や感情を詠むためのものではない」。 そんなこと考えたことさえなかった自分を恥じつつ、 観察⇔主観⇔詠嘆=切れという俳句ならではの本質に 高速でしかも自然にたどり着く。 「学ぶ」ということの衝撃のような力。

俳句講座の1時間半はあっという間だが、 鑑賞という学びは、 長い時間に濾過されるように 表現/創作の根に届く。

講座のあと、ゆっくりと二宮茂男さんの川柳句集『ありがとう有難う』を拝読した。

ジグザグにこころを縫った敗戦日  二宮茂男
首かしげ回る地球の軽い鬱
私より少し不運な人と酔い
頬杖で支える今日のがらんどう

端正な一句一句は温かく、正直で、 ていねいに日々をみつめながら、 世界を広げる。

パスワード忘れ自分へ帰れない
積み上げたどの日も愛し古手帳

悲しいことは悲しみのままそこにあってよし、 ユーモアという自分への距離の取り方が、 素直に強く胸に届く。

「この句集は二宮茂男の自分史である」とする瀬々倉卓冶氏の「序」も、 とても深い光を投げかけ、川柳鑑賞のはじめの一歩を支えてくださった。

*二宮茂男『ありがとう有難う』(新葉館出版、2014年)。

2015年2月16日月曜日

デザインから想像する

by 梅津志保


リーフ柄のスカートを購入した。冬のクローゼットは、グレーや黒の無地の服が多く、そのリーフ柄のデザインのスカートが加わることで、クローゼットの中が一瞬華やぐ。私は、昨年、横浜高島屋で開催された「芹沢銈(金偏に圭)介の世界展」に行ったことを思い出した。

染色家芹沢の作品であるのれん、着物、帯が展示されていた。それらは実用品としてだけではなく、デザインが加わることで、芸術品として存在するということ、人を楽しませたり、驚かせることができるということを教えてくれる。

「水」と一文字染め抜かれたのれん。こののれんが、家や店先に掛けられていれば、様々な風が通り、またこののれんをくぐって、たくさんの人が出入りする。人との出会いは、風が吹くごとく、水が流れるごとく一瞬の清々しさ、自然と人が一体となる、そんなことを連想させる。

中でも私が一番好きなのは、「鯉泳ぐ文着物」だ(これを見に二回展覧会に足を運んだ。)。大小の鯉が何匹も、赤地の着物にデザインされている。鯉の大きな目と大胆な配置がとても印象的であり、圧倒される。この着物を着て人が現れたら、きっと注目されるだろう。着る人におめでたいことがあったのか、華やかな気持ちが表現されているように思う。

女子高生の二人組が、「このデザインおもしろいね。」と話しているのを見て、なんだかうれしくなった。このデザインを良しと思える若者がいて、これからの日本の文化も大丈夫!そんな気持ちになった。俳句も詩もデザインも日常にあるもの、忘れかけていた何かを教えてもらった。

2015年2月2日月曜日

案外痛い豆になる

by 井上雪子


先週、職場の大先輩から、節分(豆まき)のお菓子を頂いた。手のひらサイズのパックに、紙の枡・笑顔の鬼のお面・煎り大豆、 なんとも可愛らしい。

何よりもこれを買ってきてくださったということ自体が、 なにかとても可愛らしい(大先輩に失礼?)気がする。それでも、笑顔の鬼というのはなんだかなあ。

『鬼の研究』(馬場あき子著、ちくま文庫、1988年)を、きちんと読みたいなあと思いながら、寒明け前のニュース番組に、「格差」や貧しさというものを生み出す人の世の深い暗さを思う。

イスラム国の砂漠での処刑実行動画、2008年の秋葉原大量殺人事件被告に死刑判決、『21世紀の資本』の著者であるトマ・ピケティ氏の来日・・・。

その闇、その鬼たちに、このパッキングされた可愛い豆は案外痛いのだろうか。 桃太郎をさがすのか、鬼と共存するのか、答えはないだろうが、明日、豆は小さな声で撒くような気がする。