2014年7月30日水曜日

走る

by 梅津志保


時々、家のそばを流れる川沿いにある道をジョギングする。

夏草は道の両側から茂り、道幅を狭くする。夜走る時は、夏草がぐっと濃い色を増し、両側から迫ってくるような気がして、その場を急いで駆け抜ける。冬の枯れ草は、どんどん草の密度が減って、見通しも良く、道幅は広くなり、犬とのんびりと散歩する人とすれ違う。

春には、燕がびゅんびゅん飛び回り、秋には虫が鳴き、蜻蛉がすいっと横切ってゆく。 川の周囲は、毎年その繰り返し。そして、私は、夏には「ミニ権太坂」と名付けた小さな坂をふうふう言いながら上り、冬には爽快な汗をかく。体全体で季節の移り変わりを受けとめる。

ジョギングと俳句は似ていると思う。いつでも自分の好きな時に始められる。そして、少ない物で、ジョギングは、シューズとウェア、俳句は、とりあえず歳時記とメモ帳とペンがあれば、始められる。

「削ぎ落とすこと」。ジョギングと俳句が教えてくれた。

2014年7月21日月曜日

1979

by 梅津志保


私が俳句の講座に持参する3点セットは、『俳句手帖』(本阿弥書店)と、『今はじめる人のための俳句歳時記 新版』(角川学芸出版)、そして『国語辞典』(清水書院)である。

この国語辞典は、俳句を始める時、国語辞典が必要だと思い、実家の本棚から断って拝借してきたものだ。

国語辞典の表紙には「1979 新宿区」と金色の刻印がある。職場も住居も縁のない新宿区の国語辞典があるのか分からない。両親に尋ねたこともない。聞いても多分覚えていないと思うし、誰かにもらったのか、仕事の関係先からもらったのか、ちょっと謎な部分もまた気に入っている。
そして、この国語辞典を引いていると、時折、両親が調べたり、余白に調べた言葉が繰り返し書いてあったりする箇所に出会う。何かで必要になって調べたであろう両親のことを考えたりする。1979年からの年月が国語辞典からあふれでてくるようだ。辞典を拝借したというだけではなく、言葉を受け継いだという感覚だ。

俳句の場では、皆さん電子辞書を使っている。私もいつかは欲しいなと思うし、スマートフォンで写真や言葉も調べる。 
でも、今は、この国語辞典で、いつかまた両親の思いに出会えるのではないかと思い、だいぶ私の手に馴染んできた重い茶色の表紙の国語辞典を今日も鞄に入れる。

2014年7月15日火曜日

折り合いがつかぬこと

by 井上雪子 


折り合いをつけるという言葉があるが、じき60才になろうかという自分のなかで、未だ折り合いがつかないということのひとつが「制服を着る」ということ。

保育園に行くのがとにかく嫌だった記憶があり、園児服を着るところから恐怖に近い不安や嫌悪にまみれ、家の外に出たらもうお迎えの列が見えているから今日は行かない(行けない)などと駄々をこねていた。

今なら、性同一性障害とか発達障害などの治療を必要とする子どもだったのかもしれない、セーラー服を着た自分の姿にどこか私は苦痛めいた何かをおぼえていた。単に五教科の成績がよく、友達も男女を問わずに多かった(いじめもしたしケンカもした)ので、学校で問題視されることはなかったが、これが自分というアイデンティティーを持ちにくかったように思う。

高校では制服を充分に着崩し、就職後はほとんど制服の無い職場で働いてきた。 だが、今、自分が作業服を着る必要に迫られ、大人げない拒否反応を起こしている。

俳句という定型の世界、「韻文」というものは型にはまっているかのように見えながら、意味という束縛を脱ぎ捨ててかまわない柔らかな世界だ。言葉の自由への意志。季語があろうがなかろうが、社会や政治の具体を言葉にするもしないも、破調も型破りも容認する。
現在進行形の時空に根ざし、型を保持し、なおかつ何からも自由であろうとする意志、みずから着る服を選んできた俳人たちの気骨のような系譜がある。

私はだからこそ、俳句に向き合い続けているような気がする。制度との折り合いのつかなさはかえってそれはそれで価値のあることのような気もする。そうして明日は何をどう着て行こうか、うじうじ苦しむ。小心者である。

2014年7月8日火曜日

江ノ島の日

by 西村遼


江ノ島に行きたくなる日というものがある。
よく晴れた日、しとしと雨が降る日、忙しい中のたまの休み、ただ退屈な時、と外的にはいろいろあるが、とにかくふと自分の中で条件がそろい、「江ノ島でも行こうかな」という気になる。

私の自宅から江ノ島までは車で二十分、バスと江の電を使っても一時間しかかからないが、その土地の持つ空気感はまるで異なる。他の地域の方には失笑されることと思うが、なにしろ「東洋のマイアミ」を勝手に名乗っている湘南海岸のことだ。どことなく南国的な、それでいて醤油っぽくもある香りが漂い、次第にこちらの気持ちもユルくなってくる。

ジブリ映画的な異界への雰囲気をまとった大橋を歩いて渡り、島内のキツい坂道をアトラクションのようにして登る。嫉妬深い弁天様やら大きな財布のご神体やら、神様までも俗っぽい。

この島自体がどことなく箱庭めいて見えるが、同時にこれ以上なくからっとした生活臭もする。ハレの空気がどこまでも薄く引き延ばされて日常に膜をかけているような場所だ。

私は島の空気を吸い、何か考えているような顔をして実際はほとんど何も考えたりせず、適当にぶらついてから帰る。名残惜しいとかもっといたいという気分はほとんど起こらない。江ノ島という土地は本気で観光客を呼び込もうとしている感じがせず、来るもの拒まず去るもの追わずという顔をしているからだろう。