2014年4月28日月曜日

おかえり

by 梅津志保


5年前、駅の南口の再開発と同時期にこの街に越してきた。家から駅までの道は整備され、駅前にはスーパーがあり、とても快適だ。駅の北口には、お肉屋さんやお魚屋さんが軒を並べている。夕方などはとてもにぎやかだ。仕事帰りに店に立ち寄ると「おかえり!今日は何にしましょう!」と言って、旬の食材や調理法を教えてくれる。

以前暮らしていた街での私は、自分の周りにあるたくさんの言葉に少し疲れ、自分も言葉で誰かを傷つけているのではないかという思いに駆られ、仕事から離れ、家で静かな暮らしをしていた。日中話すのは、スーパーのレジの人とだけ。話すと言っても、レジの人が「レジ袋は要りますか?」「ありがとうございました。」と言い、私は首をふるか、うなずく。
家に居れば、誰からも傷つけられず、傷つけず、自由に自分がいられると思っていた。ところが、社会から離れると、人と接しないと、自分が確立されないということに改めて気がついた。相手がいて、傷ついても言葉を交わすことで、相手のことも自分のことも理解できる。その場所に立っていなければ、自分が立ち上がってこないのだと。

言葉は傷つけもするが、人を救いもする。今の私は仕事をし、俳句を通じて、言葉を磨く。「おかえり。」という言葉ひとつで、一日の充足感を得て、人の温もりに包まれる。私の中で今言葉は、お魚屋さんで買ってきた鰺と同じく、ピカピカ光り輝いている。

2014年4月21日月曜日

買物籠からキラキラと

by 井上雪子


町や橋の名前の付いた通り、商店街が人々でにぎわっていた時代、子どもだった私の目に安物の造花はイキイキと輝いて見えた。
意味も分からなかった「縁日」、屋台に並ぶセルロイドのおもちゃやどぎつい色のお菓子が妖しい光線を放っていた。ただのお母さんのお買い物籠から少しずつ、魔法の粉が撒かれて、商店街は光っていたのだ。

今、シャッターが降りたままの店が並ぶ商店街を歩けば、エプロンをして買い物籠を下げたお母さんたちが幻のように見えてくる。
共稼ぎ・男女平等・核家族・バブル崩壊・レジ袋・・・。
昼間っから食材を買いに出かけ、夕方には子どもと手をつないで歩いていた彼女たちを絶滅に追い込んだものって本当は何だったんだろうか。

時代の波は寄せては返し、「ただのお母さん」の意味や価値を削ってしまい、お父さんもお母さんも忙しく、ピッピッとマイレジ精算を急ぐ。
けれど、イタリアのマンマみたいなのんびり堂々、ただのお母さんがかっこよかったことに気づき始めた女子も少なくはないと思う。
買い物籠は最高にエコだったし、世界の安定はただのお母さんの立ち姿にあった。なんだか今、そんなただのお母さんの魔法の力がとても大切な気がする。

昔ながらの形式でありながら、俳句はその魔法の力・キラキラの粉を密かに隠し持ち続けてきたように思う。詩という表現の本質的な自由さ、野性的な言葉の力、時代には削られない何か。
コミュニケーションの手段としてみれば、わずか十七音の俳句は最高のエコだといえるし、ただのお母さんと同様、豊かな時間を抱いてもいる。

携帯電話やラインで繋がる「忙しいのがかっこいい」ブームを終わらせ、そのヒロインが立ち上がる時、キラキラするものが街に広がっていくのだろう。
商店街には電子音は似合わない。

2014年4月14日月曜日

言葉の振り逃げ

by 西村遼


高橋秀実『「弱くても勝てます」 開成高校野球部のセオリー』(新潮社)を読んだ。この著者にしては珍しく高校野球というメジャーな素材を扱っており、もうドラマ化もしているらしい。確かに「学業成績優秀だが弱小の野球部が発想の転換で強豪に打ち勝とうとする」なんて言うといかにも向上心のありそうな話に聞こえる。しかし、何か役に立つ教訓を求めてこの作品を読もうとすると、著者の混ぜっ返すような筆に困惑してしまうかも知れない。事実として開成高校野球部は進学校としては異例の好成績を挙げているからこういう本も出るのだけれど、著者の関心はそこではなく生真面目で正直な部員たちの語る言葉にある。

この本の中の開成高校野球部員たちは、とにかく言葉でよく考え、自分自身の行動を論理づけ、分析し、説明する。それがもしイチローのような天才野球選手が自らの技を語る言葉であれば、私たちはたとえ野球をあまり知らなくてもありがたがって聴いてしまうだろう。しかし、彼らは決してイチローではなく、一般的な野球部員としても単純な運動神経という点では見劣りする生徒がほとんどである。そのため、彼らの言葉は主に自分たちの下手さを分析し論理的に説明する言葉になる。その言葉がとても豊かなのだ。
「野球は言葉のスポーツ」という故パンチョ伊藤氏の言葉があるが、例えばこの本の中の、
「球は前から来るものだから打撃は難しい」
とか、
「野球しようとするな!」
などの言葉は言葉そのもののおもしろさとして見事なクリーンヒットである。言葉の世界においては、プロも高校生も素人も、野球のうまい下手も関係ない。真剣に考えて、思い切ってバットを振れば、誰にでも出会い頭の一発はあり得る。あるいは空振りでも、アウトになるまで何が起こるか分からない。振り逃げでも暴投でも、言葉はボールのように転々と転がって何かを起こす。


そしてそういう言葉を引き出そうとバッティングピッチャーのようにゆるくて絶妙な球を投げているのが著者の高橋氏である。インタヴュアーとして、氏は部員たちに常に基本的なことを問いかけ続け、その認識を揺らし続ける。その揺らぎに生真面目な少年たちはいちいち素直に反応してしまい、結果的にそれぞれの個性がとても良く感じ取れる。へなへなの空振りをしたバッターがなぜか可愛く見えるのと一緒だ。

高橋氏の作品はいつも、問いが問いを生むような魅力的な文体で、身近な題材の自明性を揺り動かしてきた。「ノンフィクションは事実をそのまま書くもので、何らかの教訓や着地点があるもの」という一般認識をもまた。そこにはただ、私たちが真剣に考えた時にのみ生じるおかしさがある。

2014年4月7日月曜日

365日

by 梅津志保


子どもの頃、たくさんの動物に囲まれて暮らしていました。
鶏、うずら、インコ、犬、亀。
子雀を拾った時は、どうしたものかと、子雀を鳥籠に入れて庭先に置いておくと(ベストな方法は、子雀を見つけたらそっとしておくことです。)親雀が必死で小雀に餌を運んできたので、慌てて籠を開け、子雀を放ちました。

また、台風の後、鳥小屋の入り口に、増水で流れてきたのか蛇を見つけたときは驚きました。腰を抜かしている場合ではありません。鳥を守るため蛇を追い出しました。このように、365日動物と関わっていました。 

そんな私が、最近読んだ本は、『鳥獣の一句 365日入門シリーズ』(奥坂まや著・ふらんす堂)です。
春には春、冬には冬の、季語と動物を重ね合わせ、一冊に豊かな世界が広がっています。また、自分の誕生日の句を読んだり、今日の句を読んだり。そんな楽しみもあります。
動物は、人に何かを伝えるのではなく、本能のまま、季節の過ぎ行くまま生きているんだ、ともいえます。しかし、動物は、人が「見よう」とする心ひとつで、自分の気持ちに気がついたり、動物の生きる姿の美しさや季節の風景との描写など無限の広がりを教えてくれます。 

先日、動物園に行きました。ふと思ったのは、動物の名前や生態を説明した看板に、その動物に関する俳句も掲載されていたら、もっと人と動物の距離が縮まるのではないか、ということでした。檻の向こう側とこちら側ではなく、今、同じ地で時を過ごしているということ。人は、動物に対してもっと謙虚な気持ちで接する、寄り添う、教えてもらう。俳句の中の世界と同様、この地で人も動物も生き生きと暮らし、いつまでも動物のことが詠める世の中であるといいなと思います。