2015年3月29日日曜日

緩やかな夕べ

by 梅津志保


『語る 兜太-わが俳句人生』(金子兜太、聞き手:黒田杏子、岩波書店、2014年)を読んでいる。

秋蚕仕舞う麦蒔き終えて秩父夜祭待つばかり 金子伊昔紅

金子兜太氏の父作詞、秩父音頭の歌詞とのことだが、人の暮らし、風土がぎゅっと凝縮されている。祭りを待つワクワクした気持ちが伝わってくる。

人によって、時間の流れは様々だと思う。毎月のルーチンワークで一年を思う人もいれば、一日の時間の流れで季節を感じる人もいる。

私は今、春の季語「春の暮」を強く感じている。会社を退社するとき、今までは真っ暗な道を歩いていたが、今は、少し明るくなった空に、街中のビルも、川も、輝いて見えて、気持ちがゆるりと夕べに解けていくように感じる。季節の少しの変化も当てはまる季語がある。改めてその力強さに驚く。

2015年3月23日月曜日

園庭のない保育園

by 井上雪子


近隣の保育園の先生から、 この三月に卒園する子どもさんたちの 手作りの版画カレンダーを頂いた。
カブトムシや鮫、向日葵や顔、 ボール紙を切り抜き、貼り合わせて刷ったそうだ。 画用紙いっぱい、のびのびと単純化されたかたち、 大胆で自由で力強い。
ささやかなお礼をと、 水仙のプランターをお届けしにはじめて その保育園に伺って、あっと思った。
お昼寝タイムの静かな雨の園には お庭がなかった・・・。
そうかぁ、みんなで公園に遊びに来てくれていたのは、 そういうことでもあったんだね・・。
横浜市の待機児童の多さ、 じつは他人事と思っていた自分の、 なんとも鈍感な心に自分で傷つく。
きんぎょ、チョウチョ、くわがた・・・、 生きものに真向かう力強い温かさ、 作品という定規をもたない子どもたちの表現は 邪心がなく、力作というか、傑作というか・・。
けれどそこにある、表現/アートという力には、 型の完成に向かおうとする美意識がある。
何かを届けたいと無意識に思っているだろうか、 未来というもの、 夢というものが胸にぐんと来る。

2015年3月16日月曜日

ぽとーん、ぽとーん。

by 井上雪子


公園の園路となっている階段に張り出していた 大木の枝を伐っていただいた。 今日、その階段を降りていくと、途中に小さな水溜りが ふたつ。
見上げると伐られた枝の切り口からの水が落ちて来る。
ぽとーん、ぽとーん、ぽとーん。
掌に受け、飲んでみようかと思った(やめておいたが)。
知ってはいたけれど、
土の中から根が吸い上げた水分が、 幹を通り、枝を抜け、葉に運ばれていく、 その目に見えない生命の力がふいに見える。
光りながら落ちて来る水玉。 
ぽとーん、ぽとーん。 
空、枝、土。 
見えないところで、 見えないように/見せないように、 水は生命を支え、繋げていく。 
腐り、倒れ、光が入り、長い時間が過ぎる。 
ぽとーん。

2015年3月2日月曜日

読めないね、あかぎれ

by 井上雪子


今年の冬、アカギレというものの痛さを知った。
私の幼児期はまだまだ横浜の冬も寒く、 厚ぼったい冬の肌着やしもやけ、 しもやけに塗る「桃のはな」という可愛い名前の べとべとのクリームをおぼえている。

だが、加齢というか老化というか、 昨年は踵、 今年は指の腹や関節の上側がピッと切れる。
意外によく効くアカギレクリームを塗るのは、 身体の変化を告げる声をゆっくり聞きとる時間なのかもしれない。

さて、あかぎれは皸、難しい漢字だなぁ。 パソコンで変換するという機会がなければ、読めないと思う。
俳句には時々、読めない漢字があり、 音がわからなくて考える。「手書き入力変換」機能をもつ電子辞書を買おうかと思うのだが、読めなくてもいいのかな、という思いが微かにある。

わたしもまた難しい漢字や英単語を俳句中に置いてしまうことがある。 ルビをふろうか、脚注の要不要などを考える。

が、 俳句講座で先生が仰るように、 「その文字、言葉が分からなくても、 表現(一句)の全体の意味を読み手は理解する」。

なので、誰に受け取ってほしいことがらなのか、 どう受け取ってほしい作品なのか、 眼と耳、知識の問題というよりも、 心と心のこととして考えてみる。

文意が屈折し、捻じれるままにすることもある。意味は分からないけど、このままが好きということもある。
楽しい問題だが答えはカンみたいなものになる。