2014年10月21日火曜日

感動の骨格

by 梅津志保


台風が来る少し前、黒姫高原に向かった。黒姫高原は、橋を渡ればすぐ新潟県という、長野県の北にある黒姫山の麓にある高原だ。

立ち寄った黒姫童話館は、童話作家松谷みよ子や作家ミヒャエル・エンデの作品、また信州の昔話が分かるコーナーなど展示、所蔵されている。

松谷みよ子の「ちいさいモモちゃんシリーズ」を読んで育った私は、もう鼻の奥が懐かしさでツンとしてしまう。ちいさいモモちゃんで印象的なのは、両親が別れるシーンだ。当時は「離婚」という言葉も知らなかったが、深く悲しんだことを覚えている。童話で離婚や心の悩みを扱うことに対して、作者の中でどれだけの葛藤や周囲からの反対があったことだろう。でも、子どもに対してもやり過ごすことなく真っ直ぐに書いてくれたことで、私たちはモモちゃんと共に乗りこえて大人になったような気がする

作家ミヒャエル・エンデのコーナーでは、エンデからのメッセージとしてこんな言葉が掲げられていた。「おまえは自分の知らないものにかんして存在を認めません。そしてファンタジーなど現実ではないと思うのです。でも未来の世界はファンタジーからしか育ちません。私たちはみずから創造するもののなかでこそ、自由な人間になるのです。」何度も何度も読み返した。そう、自分の知らないことに対しては、不安で、通り過ぎたくなる。俳句の省略した世界に「これはどういう意味なんだ?」と迷う。白黒つけたがりの私は特にそうだ。でも、グレーでもいいということに安心して、そこから始めて、自分なりに読み、作る。感動の骨格さえ忘れなければいいのだと時々言い聞かせる。誰のためでもなく自分のために。

今回の旅は、以前通りかかったことのある黒姫という場所に滞在するという深い目的があったわけではない。しかし、終わってみれば今の自分があの場所を必要としていたのだとそう思う。

2014年10月13日月曜日

古い写真を捨てる日

by 井上雪子


中学生になったばかりの春だったか、父が誕生日プレゼントに小さなカメラを選んでくれた。そのカメラをいつ、何故、どのように捨ててしまったのか、哀しいことに記憶はないのだが、今使っているカメラはいつしか5台めとなった。

今日、ちょっと必要があって、古くからの友人の写真を探すために、クローゼットの棚のアルバムやらプリントをゴソゴソしていたら(探していた1枚は見つからなかったが)、30才前後のバブル期、職場の同僚たちと遊びに出かけては手作りしたアルバムの何冊かをついつい見て読んで笑ってしまった。ほんとバカバカしい限りではあるが、自分としては幸福に近い気分なのだった。

しかし、ピンボケとか、誰だかも思い出せないひと、同じタイミングで撮られた3枚の写真など、捨ててしまえばいいものを、たかが紙(すみません紙業界の皆さん、お世話になっていますのに)であるものが写真となるとなぜ捨てにくいのだろうか。人が写っていても、思い出という甘美さが漂っていても、ゆっくりさっさと取捨選択する力(そのイメージさえ)が、なかなか湧いてこないのだ。

そしてまた、分別とかシュレッダーとか、ひと手間かかる窮屈なご時世、取捨選択の面倒さに拍車がかかる。膨大なデジタル・データの垂れ流しに加担し、自ら振り回されて疲れる。この妙なスパイラルから皆さんはどうやって抜け出しているのだろうか。バカバカしく強い/幸福な意志を見つけるのでしょうか、それとも片づけ屋さんを呼ぶのか。古い写真を捨てる日、いや、眠いのに、どうにかしなくてはと焦る。