2014年10月13日月曜日

古い写真を捨てる日

by 井上雪子


中学生になったばかりの春だったか、父が誕生日プレゼントに小さなカメラを選んでくれた。そのカメラをいつ、何故、どのように捨ててしまったのか、哀しいことに記憶はないのだが、今使っているカメラはいつしか5台めとなった。

今日、ちょっと必要があって、古くからの友人の写真を探すために、クローゼットの棚のアルバムやらプリントをゴソゴソしていたら(探していた1枚は見つからなかったが)、30才前後のバブル期、職場の同僚たちと遊びに出かけては手作りしたアルバムの何冊かをついつい見て読んで笑ってしまった。ほんとバカバカしい限りではあるが、自分としては幸福に近い気分なのだった。

しかし、ピンボケとか、誰だかも思い出せないひと、同じタイミングで撮られた3枚の写真など、捨ててしまえばいいものを、たかが紙(すみません紙業界の皆さん、お世話になっていますのに)であるものが写真となるとなぜ捨てにくいのだろうか。人が写っていても、思い出という甘美さが漂っていても、ゆっくりさっさと取捨選択する力(そのイメージさえ)が、なかなか湧いてこないのだ。

そしてまた、分別とかシュレッダーとか、ひと手間かかる窮屈なご時世、取捨選択の面倒さに拍車がかかる。膨大なデジタル・データの垂れ流しに加担し、自ら振り回されて疲れる。この妙なスパイラルから皆さんはどうやって抜け出しているのだろうか。バカバカしく強い/幸福な意志を見つけるのでしょうか、それとも片づけ屋さんを呼ぶのか。古い写真を捨てる日、いや、眠いのに、どうにかしなくてはと焦る。

0 件のコメント:

コメントを投稿