2015年5月25日月曜日

谷崎潤一郎の時を泳ぐ

by 梅津志保


『レッドクリフ』、『となりのトトロ』、『細雪』。私は、テレビを見ていて、偶然この3本の映画の再放送をしていると、必ず最後まで見てしまう。特に『細雪』は、毎回美しい風景、言葉、人物像に引き込まれて、ゆったりとした時間を過ごすことができる。

県立神奈川近代文学館、「没後50年 谷崎潤一郎展-絢爛たる物語世界-」に行ってきた。展覧会は、谷崎潤一郎の一生を追ったものだ。私は、谷崎潤一郎の生涯をあまり知らずに行ったので、正直驚いてしまった。会場を進むうちに、たくさんの手紙、原稿の文字、そして愛した人々、その一生がまるで深く広い海のように感じた。私は、その中を泳ぎながら、なぜそんなに苦しまなくてはいけないのかと息苦しくなったり、美しいものを残したいという強い意志は、海で顔を上げた時の太陽の美しさ、まぶしさとの出会いなのではないかと思ったりした。

会場の出口を出ると、まさに海で泳いで、浜にたどりついたような気分だった。その一生や世界観に浸れたことをとてもうれしく思った。


青と茜が入り混じった横浜の美しい夕焼けを、どんな言葉で残したらいいのか。残すべきか。強い意識を持ち、突き詰めて考えながら海の見える坂道を下った。



特別展「没後50年 谷崎潤一郎展 ―絢爛たる物語世界」
県立神奈川近代文学館
平成27年4月4日(土)~5月24日(日)

2015年5月18日月曜日

若冲、何を描いたのか

by 井上雪子


港区六本木、サントリー美術館、「若冲と蕪村」展に行ってきた。 20年か30年か昔に感動した若冲だが、記憶もさすがに薄れていた。今回、あらためてその表現の圧倒的な凄さにう~ん、と唸ってしまった。

ひとつの作品、対象に注がれる天才的な繊細さと大胆さ、写実とデザインを自由に行き来する技術と表現欲、その時間と集中力、それが何枚も何枚もあるということ。 見たことのないものを描き上げようとする憑依のような妄想(白象の睫毛や虹のような牙?舌?)には、笑ってしまう楽しさが漂う。驚嘆と感動、そして謎。

このひとは何を描いているの?鶴だよ、鶏だよ、そうだよ。けれど、どれほどハイビジョンな鶏の写真、あるいは本物がいたとしても、何時間も観たいだろうか。もしかすると写実的にうまければうまいほど息がつまる様なつまんなさとは別のどこか、そこに若冲の凄さ、面白さがあるのかと思う。が、それが何から来ているのか、遂にわからないまま、出口に向かう。

視ることとは、描くとは、表現するとは、こういうことか。 言葉にはできないけれど若冲の眼が瞬間に掴み、若冲の指、若冲の精神力がここに描こうとした何かが画紙に生き続ける。 答えるのは言葉じゃなくて、筆の跡、墨の色、顔料の滲み、そして描かなかったもの。



「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展
サントリー美術館
平成27年3月18日(水)~5月10日(日)


2015年5月11日月曜日

豊穣神に出会う

by 梅津志保


ゴールデンウィーク中は、川沿いの葉桜の中をよく歩いた。

草むらにしゃがんでいる少女二人がいたので、何をしているのかと覗き込むと、突然立ち上がった少女の手には蛇。その足元では猫が恨めしそうに、蛇を見上げている。私は、びっくりして逃げ出した。たぶん構図は、こうだ。猫が蛇を見つけ、少女が猫と蛇を見つけ、私が少女と猫と蛇を見つけ、びっくりして逃げ出す、まるで4コマ漫画のような展開だ。

振り返ると、もう一人の少女が「逃がしてあげなよ。」と言い、二人はスマホで記念撮影をした後、川に蛇を逃がした。

折り返し、同じ道を通った時、さっきの猫が、葉桜の下、何事もなかったかのように寝そべっていた。少女が手で蛇を持っていたこと、久しぶりに蛇を見たこと、蛇の長さ、クネクネとした動き、目の前の情景を忘れず、対象をもっともっと見つめたいと思った。帰ってきて歳時記で調べると、蛇は「豊穣神」なのだそうだ。

蛇から豊かな夏を受け取った。

2015年5月4日月曜日

泳げ、描け、書け

by 井上雪子


大人になって日本というあたりまえのなかに、そのユニークさを再発見していくにつれ、鯉のぼりという発想の大胆さにひかれるようになった。

しかし、ここ数年、初夏の空を泳ぐ不思議なその姿に見とれた記憶がないんだなあ。行動半径が狭くなったのか、空を見上げる時間がないのだろうか、子どもの少なさ、家のぎっしり感。あれこれ考えてみる。

激流の滝を登り終えた鯉が龍になったという後漢書にある故事、その大陸的な比喩は江戸時代の画師たちにインスパイアされ、戦国時代の勢いを引き継ぐように、江戸から明治、昭和へと、空を泳ぐさかな、鯉のぼりとして生き続けてきた。

だが、平成の鯉のぼり、プリントは鮮やかだけれど、龍になるつもりはないようにだらんとする(風がないのか、高くないのか、わからないけれど)。平和はよい。平和じゃなくちゃね、どの国の子も元気に育てよ、と願いつつ、昭和の子どもだった私の記憶にわずかに残る重い布のくすみ、あやしげな凄み、親子の呑気さ、ちょっと不気味な鯉のぼりが懐かしくもある。

毛筆・習字は苦手だった。けれど、たまには俳句を手書きしてみよう、プリントにない力を思い出そう、そんな五月の風が吹く。