2014年4月21日月曜日

買物籠からキラキラと

by 井上雪子


町や橋の名前の付いた通り、商店街が人々でにぎわっていた時代、子どもだった私の目に安物の造花はイキイキと輝いて見えた。
意味も分からなかった「縁日」、屋台に並ぶセルロイドのおもちゃやどぎつい色のお菓子が妖しい光線を放っていた。ただのお母さんのお買い物籠から少しずつ、魔法の粉が撒かれて、商店街は光っていたのだ。

今、シャッターが降りたままの店が並ぶ商店街を歩けば、エプロンをして買い物籠を下げたお母さんたちが幻のように見えてくる。
共稼ぎ・男女平等・核家族・バブル崩壊・レジ袋・・・。
昼間っから食材を買いに出かけ、夕方には子どもと手をつないで歩いていた彼女たちを絶滅に追い込んだものって本当は何だったんだろうか。

時代の波は寄せては返し、「ただのお母さん」の意味や価値を削ってしまい、お父さんもお母さんも忙しく、ピッピッとマイレジ精算を急ぐ。
けれど、イタリアのマンマみたいなのんびり堂々、ただのお母さんがかっこよかったことに気づき始めた女子も少なくはないと思う。
買い物籠は最高にエコだったし、世界の安定はただのお母さんの立ち姿にあった。なんだか今、そんなただのお母さんの魔法の力がとても大切な気がする。

昔ながらの形式でありながら、俳句はその魔法の力・キラキラの粉を密かに隠し持ち続けてきたように思う。詩という表現の本質的な自由さ、野性的な言葉の力、時代には削られない何か。
コミュニケーションの手段としてみれば、わずか十七音の俳句は最高のエコだといえるし、ただのお母さんと同様、豊かな時間を抱いてもいる。

携帯電話やラインで繋がる「忙しいのがかっこいい」ブームを終わらせ、そのヒロインが立ち上がる時、キラキラするものが街に広がっていくのだろう。
商店街には電子音は似合わない。

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