あっけなく、はっきりと夏が終わる。夜、コオロギが鳴きはじめたかと思いきや、早や赤とんぼを見かけ、青い小さな団栗三つ、拾う。何か納得できないような、陰暦が季節に追いついたかのような、短い夏だったと思う。
そんな秋めいた昨日から蕪村の俳句をゆっくりと読み始めた。「染あえぬ尾のゆかしさよ赤蜻蛉(あかとんぼ)」、「鳥さしの西へ過(すぎ)けり秋のくれ」、解説を読まなければ句意がわからない。が、何か美しいことは伝わってくる。未だすっかり赤くなっていない蜻蛉、秋の初めのその完璧ではないゆえの美しさ。小鳥を捕える者が沈みゆく秋の夕陽の方へ、仏さまの住むという西の方へ。
景の中で二転三転、実景に心象が混濁し、深くなってゆく意味の面白みを味わう。先日、サントリー美術館で「若冲と蕪村」展を観た際、蕪村の絵の面白みが理解できず、しっかり観ないままにしてしまったことを、今とても残念に思う。見つめること、見つけること、描くこと。俳句と通底する何かが見え隠れする。私は風景画も石膏デッサンも苦手で嫌いだったけれど。そして、絵筆を握らなくなってから本当に長い時間が過ぎたけれど、絵を描きたいと思う、秋。
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