2015年8月10日月曜日

言葉の痛み

by 井上雪子


「自分の体験を一方的に語っている自らを省み、ひとりひとり異なっている様々な聞き手がいるということを考えた・・・」と話されるご老人がいらして、はっとした。2日ほど前、被爆体験を語り継ぐことの難しさを伝えるテレビ番組だ。この春、若い聴衆からこの方に乱暴なひとことが投げられたのだが、その方はそこから投げた側の痛みをきちんと受け止め、投げられた痛みに屈することなく、自らを見つめられたのだ。再び大切なことを次の世代に伝えるその言葉、その思考のやわらかさを私はなにか救われるような思いで聞いていた。

2015年夏、殺す側と殺される側の「何故?」は互いに理解しあえない外国語のように、隔絶している。勝つために殺す、誰でもいいから殺す、まもるために戦いに征く、意味が分からない。議論に負けても数で勝ち、非戦の志は70年で手放されるのだろうか。殺しあわない力は言葉の力、自由のちからは表現の力。痛みからさえ学ぶことを継ぐことを思う。

17音、何も言わなくとも以心伝心、超日本的自由を渡ってきた涼しい風、立秋。

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