2014年9月2日火曜日

季語の違和感

by 井上雪子


今年、神奈川県の横浜市では、7月末にはかなかなが鳴き、赤とんぼが飛び交っていました。
空にはすでに鱗雲。 この時期、雲といえば積乱雲、もくもくと立ち上っていくその勢いは、私にとっては夏の大きな楽しみの一つなのですが、今年はそれを見ないまま、9月に入りました。 

日暮れには蒼い富士山がくっきり、空気がきれいになったというだけではない何か。「積乱雲が見られない」というニュースは聞かないけれど、 天上の城のように聳えたつ夏雲の美しさを飛行機の小さな窓から飽かず眺めていたのはいつのこと。 ぼんやりと、わたしにとっての季語の栄枯盛衰(ってほどでないけど)を思いました。 

午睡、アイスクリーム、水着、腹巻、ナイター、ビアガーデン・・・・、言葉として懐かしむだけのものやことも増えますが、他方、新しい実感をもって響きだす季語も。 
たとえば、「台風」。自分のなかに広がる昨年までにはなかった微妙な違和感、わたし自身が戸惑うわずかな時間。

災害も戦闘も絶えないなか、ゆったりと広がる「季語」という文化(「個」ではなく「和」の文化)は、古くならない何かをその微かな違和感から彫り出していく力を試されつつ、どこかで新しい力となるような思いもします。

そしてまた、盆踊りの、揃って同じ動きをするリズム、好きか嫌いかはさておき、一夜、争いごとを忘れ、ひとつになってしまえるこの国のシュール。なおかつ、いつしか輪を離れ、月の客となる時間を待つのもまたこの国のルーツ。

俳句の原点/出発点には「ひとをおもうこと」が置かれている、その強さを思います。

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