2014年6月24日火曜日

樹を伐るまでに

by 井上雪子


この一週間、大木を伐る仕事を見守っていた。16tクレーン車が通行許可を取ってやってきて、それはそれは見事な職人さんたちの手際、ほんとならハラハラしながら見守るだろう高さや危うさを確かな技量、綿密に計算・計画された美しい流れ、許されることなら日がな一日、見せて頂きたいと思うほど、危なげのない仕事の進め方で、かっこいいとか面白いなあとか思いながら見入ってしまうような毎日だった。

その一方で、腐食や枝折れという(人間の都合で)伐らざるを得ない樹の幹にチェーンソーが勢いよく滑り込んでいくさまには、なにか深い悲しみのようなものを感じてちょっと目を逸らしたくなる。命がけの作業ということの真剣さに加えて、この大木のいのちの終わりへの敬意のようなものがあるのだろう、作業中の現場は無駄な言葉がひとつもない、淀みのない一定の速さの整った空気に満ちていた。 

大木を伐る、そのための刃物に鑢をかけながら、朝の待ち時間のあいだに最年長の職人さんからお話を伺うことができた時のこと、いかなる時でも教えられた手順を守ることの大切さや、予測や予知とそれへの対応力とは結局はセンスなのだということ、そして素直に聞くという姿勢が何よりも必要という言、植物やお天気や季節を相手に仕事をしてこられた方ならではの澄んだ眼差しとともに、シンプルさのきわみのような言葉を、どこか俳句の世界に通底しているような言葉だと思う。

作業の前に刃のひとつひとつを研いでいく、大木を伐ることの意味の重さを知りつくした丁寧で無駄のない熟練の手つき、この素朴な真剣さこそが自然と向き合い続けることであるようなことと私には思われた。
樹を伐るまでに整えられる時間の長さを少しばかり理解したのだった。

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