2014年5月5日月曜日

石田徹也展-ノート、夢のしるし-

by 西村遼


平塚市美術館で開催されている石田徹也(1973~2005)の個展に行った。
氏の作風は、虚ろで悲しげな目をした青年(ほとんどの作品に同じ顔をした青年が何人も出てくる)が飛行機や洗面器、机、椅子などの日常的な物体と一体化しているシュールリアリスティックなものである。
グレーとブルーを基調色にしたキャンバスの中で、現代人の孤独、疲労、憂鬱といったテーマが目をそむけたくなるほど露に描かれているが、同時に、「姿勢」と「動作」に関する一種のユーモア感覚が、これらの絵を暗鬱なだけの世界から救っていると感じた。
すなわち、彼の作品では、人間とモノとは単に記号的に組み合わされているのではなく、その「動作」によって互いに近い存在になった瞬間が的確に捉えられている。この把握の仕方は俳句とも案外近いものがあるように思われる。

たとえば、人間が椅子と一体化している作品がある。「人間椅子」といえば、どんなポーズか伝わるだろう。スクワットを途中で止めるように中腰になって椅子そっくりのポーズをとれば、もともと椅子という製品は人間の身体の形状に沿い重なるようにデザインされていることに気づかされる。つまり椅子は人体を模倣しており、それに座ろうとするとき人体もまた椅子を模倣するのだ。

ほかにも、たとえば体育の授業では前屈みになって「跳び箱の台のポーズ」をとらされたことや、意固地になって人気のない階段に隠れるように座っている時には、姿勢も階段のように直線的にかたまったりしていたことを思い出せば、石田徹也の作品はぐっと身近なものになるだろう。

画家の想像力の中で、一人一人の人間は互いに区別がつかない大量生産の規格品のようなもので、精神のありようによって容易くモノとも区別がつかなくなる存在だった。それを現代社会の反転したアニミズムと呼ぶこともできるだろう。世界を擬人化してとらえるのではなくて、人間を世界や社会構造の一部品=モノとしてとらえる視点。その上で、何重にも反転した論理を尽くして、石田徹也はあるいはこう問いかけているようにも思えた。


「モノにも魂が宿るというのなら、人間にも魂があってもおかしくないのでは?……」

人間とモノとの境目があいまいになり、表現として沈黙に近づけば近づくほど、魂の所在を叫ぶ声はかえって高まるのだろうか。

失語して石階にあり鳥渡る 鈴木六林男
砲いんいん口あけて寝る歩兵たち 鈴木六林男


石田徹也-ノート、夢のしるし-

http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/2014201.htm
平塚市美術館

2014年4月12日(土)〜6月15日(日)

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