2014年3月10日月曜日

びゅんびゅん

by 井上雪子


「そうそう、ちょうど借りてきたものがあって」と、いきなり、素手に手渡された縄文土器。
横浜の海に近い丘の上の歴史資料館をお訪ねし、6000年くらい前の貝塚のお話を伺っていた時のこと。

素手で持ってもいいのかしらと驚きつつ、教科書や新聞の写真、あるいはガラス越しに見るものと思っていたその土器の、おおらかに焼かれた力強さ、素朴なのだけれどとても美しい色形に、圧倒されました。

石膏で繋ぎ合わされた15cm×30cm位の破片とはいえ、ずっしりとした厚み、紅・赤・茶・こげ茶の混じった黒茶色の、彩度の高いくっきりした素焼きの色合い、じつに無造作ながら確かな存在感があります。
竹を使って描かれたという波模様の、びゅんびゅんと迷いのない強さからは、たしかな美意識が伝えられて来ました。

懐かしいような何か、6000年という時間を越えた縄文土器を手に、自分のDNAが誇りを感じていることにゆっくりと気づきながら、なにかその土器の作り手の意志のようなものさえ、私に伝えられた気がしました。

土器は、人が人として暮らしをはじめる大きな節目としてあったものでしょうが、それが祭祀用であれ生活の器であれ、その技術のなかには、はじめから、表現という自覚と美意識があるのだということを、ふいに実感できた時、おそらくはこの頃、世界に名前を与えながら、ひとは人間という自分たちの思いを発見して行ったのであろうことにも思いが到りました。

素手に残された土器の感触の中で、技術と意志と表現について、素朴な強さという温かな思いをいつまでも巡らせていました。

俳句もまた、伝統を重ね、新しさや洗練を求められる表現ですが、捏ね繰り回し過ぎぬよう、句帳の表紙に縄文土器の絵を描いておこうと思います。

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