2015年9月21日月曜日

子規忌の夜に

by 井上雪子


9月19日、子規の居室の6畳間を訪れた。立膝のためのくりぬきのある座卓で感想ノートにペンを走らせていると、目の奥が熱くなる。糸瓜は大きくぶら下がり、所狭しと草や花やひと。この賑やかな庭を子規の自塑像が見つめる。

自作のその塑像は両手で包みこめるほどの小ささ、正確な立体感、眼などは竹べらか何かであっさりと線描きしたきり。大仰なことが嫌いな子規らしい静かな作品だ。紙粘土のような古びた白とも青とも茶色ともつかない。どこを視るともなく、何を語ろうというでなく、冬の顔だ。33歳前後の子規、繊細な、弱さにも似たこの何かにもまた、私は心を打たれる。

そして、展示品の中にあったお母上、八重さんの「子どもの頃はそれは円い顔で鼻が低くておかしな顔で、大人になってこんなに顔が変わるとは・・・」といった意味の母親目線の言葉が私にはなんだかうれしい。本当に多くの人々が愛し、多くの人々(百年以上後の私たちまでを含めて)を愛して逝った子規の人となりの礎がそこにあるように思える。世界の日本へと、この小さな家からとてつもなく広がっていったエネルギー、次の100年もまた、誰かの心に届くと思う。

子規とご家族のお墓を訪ったあと、ひとり、国会議事堂前で地下鉄を降りた。東京に住む女子高校生と私は普通に挨拶をし、北海道や京都から来た高校の先生や法学者の、ここからが新しい民主主義のスタートだという議事堂に向かって静かに続くスピーチを聞く。見守る警察官に地下鉄の駅を問えば、親切に案内してくれる。

だが、たったふたりに始まって国と国という大きな問題にまで、提案や意見の相違が問題の解決や決着を遅らせる。拉致、領海侵犯、核兵器・原子力発電、辺野古、貧困や難民、命のかかった急務が多々ある。それでも、ひとりひとりの考え、その多様さは当たり前の自由なんじゃないかな。異なる意見がタブーだなんて、恐ろしすぎる。だからこそ、理解し合うには、一緒に力を合わせるには、どこに向かって歩けばいいのだろうか。私は今、どこを歩いているのだろうか。

俳句はもちろん、スピーチではない(スピーチであることも自由かもしれないが)。生き生きと自由な心が悲しんだり歌ったり笑ったり、誰かの楽しみや小さな力になるものだと思う。だけど、みんなの幸福を夜空に描くには、私はまだまだ柔軟体操が足りない。制球力もない。背中の、子規の好きだったというお団子2本、無言。


◆子規庵(東京都台東区根岸)   「第15回特別展 子規の顔 その2」
   平成27年9月1日(火)~9月30日(水)
   (休庵日 7日(月)、14日(月)、24日(木)、28日)(月))
     開庵時間  10時30分~16時
     入庵料    500円


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