2014年7月15日火曜日

折り合いがつかぬこと

by 井上雪子 


折り合いをつけるという言葉があるが、じき60才になろうかという自分のなかで、未だ折り合いがつかないということのひとつが「制服を着る」ということ。

保育園に行くのがとにかく嫌だった記憶があり、園児服を着るところから恐怖に近い不安や嫌悪にまみれ、家の外に出たらもうお迎えの列が見えているから今日は行かない(行けない)などと駄々をこねていた。

今なら、性同一性障害とか発達障害などの治療を必要とする子どもだったのかもしれない、セーラー服を着た自分の姿にどこか私は苦痛めいた何かをおぼえていた。単に五教科の成績がよく、友達も男女を問わずに多かった(いじめもしたしケンカもした)ので、学校で問題視されることはなかったが、これが自分というアイデンティティーを持ちにくかったように思う。

高校では制服を充分に着崩し、就職後はほとんど制服の無い職場で働いてきた。 だが、今、自分が作業服を着る必要に迫られ、大人げない拒否反応を起こしている。

俳句という定型の世界、「韻文」というものは型にはまっているかのように見えながら、意味という束縛を脱ぎ捨ててかまわない柔らかな世界だ。言葉の自由への意志。季語があろうがなかろうが、社会や政治の具体を言葉にするもしないも、破調も型破りも容認する。
現在進行形の時空に根ざし、型を保持し、なおかつ何からも自由であろうとする意志、みずから着る服を選んできた俳人たちの気骨のような系譜がある。

私はだからこそ、俳句に向き合い続けているような気がする。制度との折り合いのつかなさはかえってそれはそれで価値のあることのような気もする。そうして明日は何をどう着て行こうか、うじうじ苦しむ。小心者である。

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