by 梅津志保
『レッドクリフ』、『となりのトトロ』、『細雪』。私は、テレビを見ていて、偶然この3本の映画の再放送をしていると、必ず最後まで見てしまう。特に『細雪』は、毎回美しい風景、言葉、人物像に引き込まれて、ゆったりとした時間を過ごすことができる。
県立神奈川近代文学館、「没後50年 谷崎潤一郎展-絢爛たる物語世界-」に行ってきた。展覧会は、谷崎潤一郎の一生を追ったものだ。私は、谷崎潤一郎の生涯をあまり知らずに行ったので、正直驚いてしまった。会場を進むうちに、たくさんの手紙、原稿の文字、そして愛した人々、その一生がまるで深く広い海のように感じた。私は、その中を泳ぎながら、なぜそんなに苦しまなくてはいけないのかと息苦しくなったり、美しいものを残したいという強い意志は、海で顔を上げた時の太陽の美しさ、まぶしさとの出会いなのではないかと思ったりした。
会場の出口を出ると、まさに海で泳いで、浜にたどりついたような気分だった。その一生や世界観に浸れたことをとてもうれしく思った。
青と茜が入り混じった横浜の美しい夕焼けを、どんな言葉で残したらいいのか。残すべきか。強い意識を持ち、突き詰めて考えながら海の見える坂道を下った。
特別展「没後50年 谷崎潤一郎展 ―絢爛たる物語世界」
県立神奈川近代文学館
平成27年4月4日(土)~5月24日(日)
by 井上雪子
港区六本木、サントリー美術館、「若冲と蕪村」展に行ってきた。 20年か30年か昔に感動した若冲だが、記憶もさすがに薄れていた。今回、あらためてその表現の圧倒的な凄さにう~ん、と唸ってしまった。
ひとつの作品、対象に注がれる天才的な繊細さと大胆さ、写実とデザインを自由に行き来する技術と表現欲、その時間と集中力、それが何枚も何枚もあるということ。 見たことのないものを描き上げようとする憑依のような妄想(白象の睫毛や虹のような牙?舌?)には、笑ってしまう楽しさが漂う。驚嘆と感動、そして謎。
このひとは何を描いているの?鶴だよ、鶏だよ、そうだよ。けれど、どれほどハイビジョンな鶏の写真、あるいは本物がいたとしても、何時間も観たいだろうか。もしかすると写実的にうまければうまいほど息がつまる様なつまんなさとは別のどこか、そこに若冲の凄さ、面白さがあるのかと思う。が、それが何から来ているのか、遂にわからないまま、出口に向かう。
視ることとは、描くとは、表現するとは、こういうことか。 言葉にはできないけれど若冲の眼が瞬間に掴み、若冲の指、若冲の精神力がここに描こうとした何かが画紙に生き続ける。 答えるのは言葉じゃなくて、筆の跡、墨の色、顔料の滲み、そして描かなかったもの。
「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展
サントリー美術館
平成27年3月18日(水)~5月10日(日)
by 梅津志保
ゴールデンウィーク中は、川沿いの葉桜の中をよく歩いた。
草むらにしゃがんでいる少女二人がいたので、何をしているのかと覗き込むと、突然立ち上がった少女の手には蛇。その足元では猫が恨めしそうに、蛇を見上げている。私は、びっくりして逃げ出した。たぶん構図は、こうだ。猫が蛇を見つけ、少女が猫と蛇を見つけ、私が少女と猫と蛇を見つけ、びっくりして逃げ出す、まるで4コマ漫画のような展開だ。
振り返ると、もう一人の少女が「逃がしてあげなよ。」と言い、二人はスマホで記念撮影をした後、川に蛇を逃がした。
折り返し、同じ道を通った時、さっきの猫が、葉桜の下、何事もなかったかのように寝そべっていた。少女が手で蛇を持っていたこと、久しぶりに蛇を見たこと、蛇の長さ、クネクネとした動き、目の前の情景を忘れず、対象をもっともっと見つめたいと思った。帰ってきて歳時記で調べると、蛇は「豊穣神」なのだそうだ。
蛇から豊かな夏を受け取った。
by 井上雪子
大人になって日本というあたりまえのなかに、そのユニークさを再発見していくにつれ、鯉のぼりという発想の大胆さにひかれるようになった。
しかし、ここ数年、初夏の空を泳ぐ不思議なその姿に見とれた記憶がないんだなあ。行動半径が狭くなったのか、空を見上げる時間がないのだろうか、子どもの少なさ、家のぎっしり感。あれこれ考えてみる。
激流の滝を登り終えた鯉が龍になったという後漢書にある故事、その大陸的な比喩は江戸時代の画師たちにインスパイアされ、戦国時代の勢いを引き継ぐように、江戸から明治、昭和へと、空を泳ぐさかな、鯉のぼりとして生き続けてきた。
だが、平成の鯉のぼり、プリントは鮮やかだけれど、龍になるつもりはないようにだらんとする(風がないのか、高くないのか、わからないけれど)。平和はよい。平和じゃなくちゃね、どの国の子も元気に育てよ、と願いつつ、昭和の子どもだった私の記憶にわずかに残る重い布のくすみ、あやしげな凄み、親子の呑気さ、ちょっと不気味な鯉のぼりが懐かしくもある。
毛筆・習字は苦手だった。けれど、たまには俳句を手書きしてみよう、プリントにない力を思い出そう、そんな五月の風が吹く。
by 梅津志保
普段飲んでいるお茶の葉は、お店に電話をして注文、配送してもらっている。茶葉を売っていた店舗が閉店して買えなくなってからはこの方法にしている。送料もかかるので、つい多めに、ついでに実家にも・・・と店に電話をして配送を頼み、ほっとしたつかの間、ニュース番組で「もうすぐ八十八夜」と茶畑の様子を映すのを見て「しまった、もうすぐ新茶の季節だった!もう少し待っていれば!」と思った。
立春から数えて88日目にあたる5月2、3日。もうそんなに経ったんだという気持ちだ。今年は4月の雨が多く、春の陽を浴びていないからか、まだ体が春に慣れていない気がする。それでも、今日はいい天気で、蜂が庭にぶんぶん飛んでいたり、隣家の花壇のチューリップが大きく咲いていたり。春の合図は、たくさん私の周りにあったのに気が付いていなかった。
これを反省に、この季節のお茶の配送は、きっと気を付けるようになるだろう。そして、家で待つ通販だけに頼らずに、たまにはお店に、外に出てみたい。
新聞を読んでいいことは、ネットだと自分の気になる記事しか読まないが、新聞だといろいろな情報が入ってくるからいいという話を聞いた。
目的の物を手に入れるという効率以外にも、寄り道回り道、外に出る時間を何かにつなげたい。
by 井上雪子
三才年上の姉と私は、外見はよく似ていながら、性格とか性能は大きく異なる。この差異があるので仲良く映画を観に行くことができる、そう思うくらい異なる。
たとえば家で『バクダッド・カフェ』(1987年制作の西ドイツ映画)を観る前のこと。「たしか歌がすごく良かったよね」と、姉。私にはビジュアルな後半のストーリーを少し観たような記憶があるばかり。けれど、DVDを観終わった後、たしかにジェヴェッタ・スティールが歌うテーマ曲「コーリング・ユー」がしばらく私を呼び続けた。姉は耳の人、私は眼のひとなのだろう。
わけのわからないガラクタをさっさと片付け、
赤ん坊をあやし、少女を友達と呼ぶ、
でぶっちょのヤスミンのささやかな言動が砂漠の小さなホテルを変えていく。
簡素という豊かさ、おかしみ溢れる心の置きどころ、
『男はつらいよ』の寅さん、『かもめ食堂』にも通底する何か。
人という生きもの、
現実の生活、旅の途中の、そして見えないけれど呼びあい、揺らぎあうすべて。
失職して脱力状態の私に『バクダッド・カフェ』、
「なんだかわからないけれど、癒される」、そういう多くのファンの気持ちがストレートに
わかった。
でも 私たちは知っているの
ささやかな変化が
もうすぐそこまでやって来ていることを
私はあなたを呼んでいるわ
ねえ、聞こえるでしょう?
(「コーリング・ユー」)
バグダッド・ホテルに予約をいれて、
東へと向かう列車に乗ろう。
何かが繋がる気配を想う。
姉は西へ行くらしい。
by 梅津志保
国宝絵巻「鳥獣戯画」の本格的な修理が終わり、4月末から特別展が東京で開催される。
鳥獣戯画の作者は、誰なのか詳しいことは分かっていないらしい。でも、100年経った今でも、私たちは、つい笑顔になって作品を見る。そんな作品を残した作者、いい仕事をしているなぁと思う。
そして、この絵には説明する文字が無いことから自由に想像できるという楽しさがある。
俳句につい理屈や説明を入れて「あー、違う違う」と思うことがある。私を置いて、兎は走り、蛙は笑う。もっと自由で、もっとよく見て。