2015年3月16日月曜日

ぽとーん、ぽとーん。

by 井上雪子


公園の園路となっている階段に張り出していた 大木の枝を伐っていただいた。 今日、その階段を降りていくと、途中に小さな水溜りが ふたつ。
見上げると伐られた枝の切り口からの水が落ちて来る。
ぽとーん、ぽとーん、ぽとーん。
掌に受け、飲んでみようかと思った(やめておいたが)。
知ってはいたけれど、
土の中から根が吸い上げた水分が、 幹を通り、枝を抜け、葉に運ばれていく、 その目に見えない生命の力がふいに見える。
光りながら落ちて来る水玉。 
ぽとーん、ぽとーん。 
空、枝、土。 
見えないところで、 見えないように/見せないように、 水は生命を支え、繋げていく。 
腐り、倒れ、光が入り、長い時間が過ぎる。 
ぽとーん。

2015年3月2日月曜日

読めないね、あかぎれ

by 井上雪子


今年の冬、アカギレというものの痛さを知った。
私の幼児期はまだまだ横浜の冬も寒く、 厚ぼったい冬の肌着やしもやけ、 しもやけに塗る「桃のはな」という可愛い名前の べとべとのクリームをおぼえている。

だが、加齢というか老化というか、 昨年は踵、 今年は指の腹や関節の上側がピッと切れる。
意外によく効くアカギレクリームを塗るのは、 身体の変化を告げる声をゆっくり聞きとる時間なのかもしれない。

さて、あかぎれは皸、難しい漢字だなぁ。 パソコンで変換するという機会がなければ、読めないと思う。
俳句には時々、読めない漢字があり、 音がわからなくて考える。「手書き入力変換」機能をもつ電子辞書を買おうかと思うのだが、読めなくてもいいのかな、という思いが微かにある。

わたしもまた難しい漢字や英単語を俳句中に置いてしまうことがある。 ルビをふろうか、脚注の要不要などを考える。

が、 俳句講座で先生が仰るように、 「その文字、言葉が分からなくても、 表現(一句)の全体の意味を読み手は理解する」。

なので、誰に受け取ってほしいことがらなのか、 どう受け取ってほしい作品なのか、 眼と耳、知識の問題というよりも、 心と心のこととして考えてみる。

文意が屈折し、捻じれるままにすることもある。意味は分からないけど、このままが好きということもある。
楽しい問題だが答えはカンみたいなものになる。

2015年2月22日日曜日

自分への距離

by 井上雪子


『客が来てそれから急に買う団扇』、
板書された先生がゆっくりと問われる。
「これは俳句だろうか、川柳だろうか。」
昨年12月、フェリス女学院大学の俳句講座でのこと。

「川柳ではないでしょうか」との声に、 先生が明かした作者は阪井久良岐(明治時代に川柳の革新を行った方だ)。 季節感も挨拶的な趣も諧謔性もある五七五、 虚を衝かれたような戸惑いのまま、 先生の言葉を待つ。

「川柳の本質は『穿ち』、 作者の感動や感情を詠むためのものではない」。 そんなこと考えたことさえなかった自分を恥じつつ、 観察⇔主観⇔詠嘆=切れという俳句ならではの本質に 高速でしかも自然にたどり着く。 「学ぶ」ということの衝撃のような力。

俳句講座の1時間半はあっという間だが、 鑑賞という学びは、 長い時間に濾過されるように 表現/創作の根に届く。

講座のあと、ゆっくりと二宮茂男さんの川柳句集『ありがとう有難う』を拝読した。

ジグザグにこころを縫った敗戦日  二宮茂男
首かしげ回る地球の軽い鬱
私より少し不運な人と酔い
頬杖で支える今日のがらんどう

端正な一句一句は温かく、正直で、 ていねいに日々をみつめながら、 世界を広げる。

パスワード忘れ自分へ帰れない
積み上げたどの日も愛し古手帳

悲しいことは悲しみのままそこにあってよし、 ユーモアという自分への距離の取り方が、 素直に強く胸に届く。

「この句集は二宮茂男の自分史である」とする瀬々倉卓冶氏の「序」も、 とても深い光を投げかけ、川柳鑑賞のはじめの一歩を支えてくださった。

*二宮茂男『ありがとう有難う』(新葉館出版、2014年)。

2015年2月16日月曜日

デザインから想像する

by 梅津志保


リーフ柄のスカートを購入した。冬のクローゼットは、グレーや黒の無地の服が多く、そのリーフ柄のデザインのスカートが加わることで、クローゼットの中が一瞬華やぐ。私は、昨年、横浜高島屋で開催された「芹沢銈(金偏に圭)介の世界展」に行ったことを思い出した。

染色家芹沢の作品であるのれん、着物、帯が展示されていた。それらは実用品としてだけではなく、デザインが加わることで、芸術品として存在するということ、人を楽しませたり、驚かせることができるということを教えてくれる。

「水」と一文字染め抜かれたのれん。こののれんが、家や店先に掛けられていれば、様々な風が通り、またこののれんをくぐって、たくさんの人が出入りする。人との出会いは、風が吹くごとく、水が流れるごとく一瞬の清々しさ、自然と人が一体となる、そんなことを連想させる。

中でも私が一番好きなのは、「鯉泳ぐ文着物」だ(これを見に二回展覧会に足を運んだ。)。大小の鯉が何匹も、赤地の着物にデザインされている。鯉の大きな目と大胆な配置がとても印象的であり、圧倒される。この着物を着て人が現れたら、きっと注目されるだろう。着る人におめでたいことがあったのか、華やかな気持ちが表現されているように思う。

女子高生の二人組が、「このデザインおもしろいね。」と話しているのを見て、なんだかうれしくなった。このデザインを良しと思える若者がいて、これからの日本の文化も大丈夫!そんな気持ちになった。俳句も詩もデザインも日常にあるもの、忘れかけていた何かを教えてもらった。

2015年2月2日月曜日

案外痛い豆になる

by 井上雪子


先週、職場の大先輩から、節分(豆まき)のお菓子を頂いた。手のひらサイズのパックに、紙の枡・笑顔の鬼のお面・煎り大豆、 なんとも可愛らしい。

何よりもこれを買ってきてくださったということ自体が、 なにかとても可愛らしい(大先輩に失礼?)気がする。それでも、笑顔の鬼というのはなんだかなあ。

『鬼の研究』(馬場あき子著、ちくま文庫、1988年)を、きちんと読みたいなあと思いながら、寒明け前のニュース番組に、「格差」や貧しさというものを生み出す人の世の深い暗さを思う。

イスラム国の砂漠での処刑実行動画、2008年の秋葉原大量殺人事件被告に死刑判決、『21世紀の資本』の著者であるトマ・ピケティ氏の来日・・・。

その闇、その鬼たちに、このパッキングされた可愛い豆は案外痛いのだろうか。 桃太郎をさがすのか、鬼と共存するのか、答えはないだろうが、明日、豆は小さな声で撒くような気がする。

2015年1月19日月曜日

風の名前

by 梅津志保


河原の土手を犬を散歩しながら歩く。その日は風が強弱をつけて吹いている日で、私は全身に風を感じてぐんぐん歩く。

遮るものが無い空というのは、もうここにしか残されていないのかもしれない。凧を揚げている子供が数人いた。子供の後ろから見学させてもらう。父親が凧を見ながら子供に指示をする。子供が凧を操っているのだけど、凧が子供を引っ張っているようでもあり。子供と凧の真剣勝負は見ているだけで元気になる。

風にのって音楽が聞こえてきた。その方向に進むと、ラテン調のダンスを踊っている集団がいた。クルクルと回って、トントンと足でリズムを刻む。ふと、冬の大地に「起きよ、起きよ」と呼びかけているように思えた。太古の昔、私たちの祖先も、こんな風に踊ってきたのではないかと思いを馳せた。

私の周りにはたくさんの風が吹いている。それはただの風ではない。
初東風、北風、木枯、隙間風。風という一言で済ませるのではなく、耳を傾けて、肌で感じて、ひとつひとつの風の名前を大切にしたい。

2015年1月5日月曜日

御降や・・・で松の内に

by 井上雪子


御降や竹深々と町のそら  芥川龍之介


2015年、新しい一年の始まりですね。俳句ユニット「みつまめ」、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

さて、元日は横浜でも昼過ぎから雪になり、「御降(おさがり)」とはこういうものなのか、しばらく、洗濯物もそのままに眺め入りました。

12月の半ばにちょうど、実験的俳句集団『鬼』の代表を務めていらっしゃる復本一郎先生のお話を伺う機会に恵まれ、「御降(おさがり)」という新年の季語について、江戸時代からの歳時記を繙いていく深い面白さに感銘を受けたばかりでした。

元日に降る雨や雪というものから、三が日に・・・とするもの、松の内に・・・とするものなど、時代あるいは編者によってその定義が異なる「御降」、「ですから、季語は定義を厳密に取沙汰すること自体にはあまり意味がない」という復本先生の御説の柔軟さに驚かされました。

根拠を明確に持っているからこその「曖昧さの許容」、ありそうでないものなのだなあと思いました。

歳時記中の例句についても、その季語は主題として詠まれているのか否か、意識的に時間軸のなかで捉えていくそのまなざし、歳時記の深さがこれまで以上に深く思える学びとなりました。

また、昭和49年版の角川書店の『俳句歳時記』の例句が実に確かでよいというご指摘(歳時記を買うならこの年度のものがベストとか)、私が見過ごしてきた季語と歳時記と俳句との深い繋がり方が急にキラリと光って見えました。

読み、学ぶというなかに俳句の深さ楽しさがひろがりましたが、この珍しい元日の初雪、俳句にならない。というか、「積もらないように」なんて、仕事のことを思ってしまいました・・・。

今週は雨が降るらしいので、その日は会社休みます(と言ってみたい)。御降や・・・で松の内にできるといいなあ、なんて思うのです。