by 梅津志保
リーフ柄のスカートを購入した。冬のクローゼットは、グレーや黒の無地の服が多く、そのリーフ柄のデザインのスカートが加わることで、クローゼットの中が一瞬華やぐ。私は、昨年、横浜高島屋で開催された「芹沢銈(金偏に圭)介の世界展」に行ったことを思い出した。
染色家芹沢の作品であるのれん、着物、帯が展示されていた。それらは実用品としてだけではなく、デザインが加わることで、芸術品として存在するということ、人を楽しませたり、驚かせることができるということを教えてくれる。
「水」と一文字染め抜かれたのれん。こののれんが、家や店先に掛けられていれば、様々な風が通り、またこののれんをくぐって、たくさんの人が出入りする。人との出会いは、風が吹くごとく、水が流れるごとく一瞬の清々しさ、自然と人が一体となる、そんなことを連想させる。
中でも私が一番好きなのは、「鯉泳ぐ文着物」だ(これを見に二回展覧会に足を運んだ。)。大小の鯉が何匹も、赤地の着物にデザインされている。鯉の大きな目と大胆な配置がとても印象的であり、圧倒される。この着物を着て人が現れたら、きっと注目されるだろう。着る人におめでたいことがあったのか、華やかな気持ちが表現されているように思う。
女子高生の二人組が、「このデザインおもしろいね。」と話しているのを見て、なんだかうれしくなった。このデザインを良しと思える若者がいて、これからの日本の文化も大丈夫!そんな気持ちになった。俳句も詩もデザインも日常にあるもの、忘れかけていた何かを教えてもらった。
2015年2月16日月曜日
2015年2月2日月曜日
案外痛い豆になる
by 井上雪子
先週、職場の大先輩から、節分(豆まき)のお菓子を頂いた。手のひらサイズのパックに、紙の枡・笑顔の鬼のお面・煎り大豆、 なんとも可愛らしい。
何よりもこれを買ってきてくださったということ自体が、 なにかとても可愛らしい(大先輩に失礼?)気がする。それでも、笑顔の鬼というのはなんだかなあ。
『鬼の研究』(馬場あき子著、ちくま文庫、1988年)を、きちんと読みたいなあと思いながら、寒明け前のニュース番組に、「格差」や貧しさというものを生み出す人の世の深い暗さを思う。
イスラム国の砂漠での処刑実行動画、2008年の秋葉原大量殺人事件被告に死刑判決、『21世紀の資本』の著者であるトマ・ピケティ氏の来日・・・。
その闇、その鬼たちに、このパッキングされた可愛い豆は案外痛いのだろうか。 桃太郎をさがすのか、鬼と共存するのか、答えはないだろうが、明日、豆は小さな声で撒くような気がする。
先週、職場の大先輩から、節分(豆まき)のお菓子を頂いた。手のひらサイズのパックに、紙の枡・笑顔の鬼のお面・煎り大豆、 なんとも可愛らしい。
何よりもこれを買ってきてくださったということ自体が、 なにかとても可愛らしい(大先輩に失礼?)気がする。それでも、笑顔の鬼というのはなんだかなあ。
『鬼の研究』(馬場あき子著、ちくま文庫、1988年)を、きちんと読みたいなあと思いながら、寒明け前のニュース番組に、「格差」や貧しさというものを生み出す人の世の深い暗さを思う。
イスラム国の砂漠での処刑実行動画、2008年の秋葉原大量殺人事件被告に死刑判決、『21世紀の資本』の著者であるトマ・ピケティ氏の来日・・・。
その闇、その鬼たちに、このパッキングされた可愛い豆は案外痛いのだろうか。 桃太郎をさがすのか、鬼と共存するのか、答えはないだろうが、明日、豆は小さな声で撒くような気がする。
2015年1月19日月曜日
風の名前
by 梅津志保
河原の土手を犬を散歩しながら歩く。その日は風が強弱をつけて吹いている日で、私は全身に風を感じてぐんぐん歩く。
遮るものが無い空というのは、もうここにしか残されていないのかもしれない。凧を揚げている子供が数人いた。子供の後ろから見学させてもらう。父親が凧を見ながら子供に指示をする。子供が凧を操っているのだけど、凧が子供を引っ張っているようでもあり。子供と凧の真剣勝負は見ているだけで元気になる。
風にのって音楽が聞こえてきた。その方向に進むと、ラテン調のダンスを踊っている集団がいた。クルクルと回って、トントンと足でリズムを刻む。ふと、冬の大地に「起きよ、起きよ」と呼びかけているように思えた。太古の昔、私たちの祖先も、こんな風に踊ってきたのではないかと思いを馳せた。
私の周りにはたくさんの風が吹いている。それはただの風ではない。
初東風、北風、木枯、隙間風。風という一言で済ませるのではなく、耳を傾けて、肌で感じて、ひとつひとつの風の名前を大切にしたい。
河原の土手を犬を散歩しながら歩く。その日は風が強弱をつけて吹いている日で、私は全身に風を感じてぐんぐん歩く。
遮るものが無い空というのは、もうここにしか残されていないのかもしれない。凧を揚げている子供が数人いた。子供の後ろから見学させてもらう。父親が凧を見ながら子供に指示をする。子供が凧を操っているのだけど、凧が子供を引っ張っているようでもあり。子供と凧の真剣勝負は見ているだけで元気になる。
風にのって音楽が聞こえてきた。その方向に進むと、ラテン調のダンスを踊っている集団がいた。クルクルと回って、トントンと足でリズムを刻む。ふと、冬の大地に「起きよ、起きよ」と呼びかけているように思えた。太古の昔、私たちの祖先も、こんな風に踊ってきたのではないかと思いを馳せた。
私の周りにはたくさんの風が吹いている。それはただの風ではない。
初東風、北風、木枯、隙間風。風という一言で済ませるのではなく、耳を傾けて、肌で感じて、ひとつひとつの風の名前を大切にしたい。
2015年1月5日月曜日
御降や・・・で松の内に
by 井上雪子
御降や竹深々と町のそら 芥川龍之介
2015年、新しい一年の始まりですね。俳句ユニット「みつまめ」、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
さて、元日は横浜でも昼過ぎから雪になり、「御降(おさがり)」とはこういうものなのか、しばらく、洗濯物もそのままに眺め入りました。
12月の半ばにちょうど、実験的俳句集団『鬼』の代表を務めていらっしゃる復本一郎先生のお話を伺う機会に恵まれ、「御降(おさがり)」という新年の季語について、江戸時代からの歳時記を繙いていく深い面白さに感銘を受けたばかりでした。
元日に降る雨や雪というものから、三が日に・・・とするもの、松の内に・・・とするものなど、時代あるいは編者によってその定義が異なる「御降」、「ですから、季語は定義を厳密に取沙汰すること自体にはあまり意味がない」という復本先生の御説の柔軟さに驚かされました。
根拠を明確に持っているからこその「曖昧さの許容」、ありそうでないものなのだなあと思いました。
歳時記中の例句についても、その季語は主題として詠まれているのか否か、意識的に時間軸のなかで捉えていくそのまなざし、歳時記の深さがこれまで以上に深く思える学びとなりました。
また、昭和49年版の角川書店の『俳句歳時記』の例句が実に確かでよいというご指摘(歳時記を買うならこの年度のものがベストとか)、私が見過ごしてきた季語と歳時記と俳句との深い繋がり方が急にキラリと光って見えました。
読み、学ぶというなかに俳句の深さ楽しさがひろがりましたが、この珍しい元日の初雪、俳句にならない。というか、「積もらないように」なんて、仕事のことを思ってしまいました・・・。
今週は雨が降るらしいので、その日は会社休みます(と言ってみたい)。御降や・・・で松の内にできるといいなあ、なんて思うのです。
御降や竹深々と町のそら 芥川龍之介
2015年、新しい一年の始まりですね。俳句ユニット「みつまめ」、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
さて、元日は横浜でも昼過ぎから雪になり、「御降(おさがり)」とはこういうものなのか、しばらく、洗濯物もそのままに眺め入りました。
12月の半ばにちょうど、実験的俳句集団『鬼』の代表を務めていらっしゃる復本一郎先生のお話を伺う機会に恵まれ、「御降(おさがり)」という新年の季語について、江戸時代からの歳時記を繙いていく深い面白さに感銘を受けたばかりでした。
元日に降る雨や雪というものから、三が日に・・・とするもの、松の内に・・・とするものなど、時代あるいは編者によってその定義が異なる「御降」、「ですから、季語は定義を厳密に取沙汰すること自体にはあまり意味がない」という復本先生の御説の柔軟さに驚かされました。
根拠を明確に持っているからこその「曖昧さの許容」、ありそうでないものなのだなあと思いました。
歳時記中の例句についても、その季語は主題として詠まれているのか否か、意識的に時間軸のなかで捉えていくそのまなざし、歳時記の深さがこれまで以上に深く思える学びとなりました。
また、昭和49年版の角川書店の『俳句歳時記』の例句が実に確かでよいというご指摘(歳時記を買うならこの年度のものがベストとか)、私が見過ごしてきた季語と歳時記と俳句との深い繋がり方が急にキラリと光って見えました。
読み、学ぶというなかに俳句の深さ楽しさがひろがりましたが、この珍しい元日の初雪、俳句にならない。というか、「積もらないように」なんて、仕事のことを思ってしまいました・・・。
今週は雨が降るらしいので、その日は会社休みます(と言ってみたい)。御降や・・・で松の内にできるといいなあ、なんて思うのです。
2014年12月8日月曜日
お~い、お茶でも。
by 井上雪子
粗忽ものの代表選手のような私だが、ごく時たま、とても美味しい煎茶を淹れることができ、 びっくり褒められたりするが、どうしてどうして、これはまぐれのようにしかできないこと。
ただ、なんとなく、お茶の葉やその量、水のおいしさやお湯の温度以上に、待つということ、見計らうということ、段取りとも気持ちの整え方ともいうものがおいしさを左右するように思っている。
いつも時間に追われるタイプの私には、ゆっくりていねいに何かをすることが難しいが、ゆっくりていねいに何かをすることが実は、忙しなさからの唯一の脱出口らしいということを最近、健康雑誌のコラムで読んだ。副交感神経が優位のリッラクス状態になる、ということらしい。なるほど、これは大きな逆転の一打。
一句の俳句にたどり着くまでに、私は多くの場合、切ったり削ったり、足したり換えたり・・・をパソコンで行う。それは彫塑に似た感じがし、詩の世界にいる幸福な時間であるように思う。けれどそんな推敲は、やはり俳句には向かないのだろう、俳句は次第に抽象画のような色彩のないsmall worldに紛れ込み、時々はっとして、原点まで帰ってくることになる。
稀に何かを見た瞬間、まるですんなり、一句のままひょいと俳句そのものが現れることもある。それは理想かなという感じがしなくもないが、お湯が冷めていく湯気の揺らぎのような時間、魔法のようにゆっくりと見えてくる俳句を見つけ出す時間、ていねいさということ、急がないということの大切さ、届ける力になっていく何かはそんなふうに言葉を支えていくようにも思う。
幸福で悲しくてすべきことが見えない、貧しくて懸命で理由がわからない切なさ、私の俳句はどうしてか、そんな場所を行ったり来たりしながら届きたいものらしい。
冬はこと、緑茶が美味しい。
粗忽ものの代表選手のような私だが、ごく時たま、とても美味しい煎茶を淹れることができ、 びっくり褒められたりするが、どうしてどうして、これはまぐれのようにしかできないこと。
ただ、なんとなく、お茶の葉やその量、水のおいしさやお湯の温度以上に、待つということ、見計らうということ、段取りとも気持ちの整え方ともいうものがおいしさを左右するように思っている。
いつも時間に追われるタイプの私には、ゆっくりていねいに何かをすることが難しいが、ゆっくりていねいに何かをすることが実は、忙しなさからの唯一の脱出口らしいということを最近、健康雑誌のコラムで読んだ。副交感神経が優位のリッラクス状態になる、ということらしい。なるほど、これは大きな逆転の一打。
一句の俳句にたどり着くまでに、私は多くの場合、切ったり削ったり、足したり換えたり・・・をパソコンで行う。それは彫塑に似た感じがし、詩の世界にいる幸福な時間であるように思う。けれどそんな推敲は、やはり俳句には向かないのだろう、俳句は次第に抽象画のような色彩のないsmall worldに紛れ込み、時々はっとして、原点まで帰ってくることになる。
稀に何かを見た瞬間、まるですんなり、一句のままひょいと俳句そのものが現れることもある。それは理想かなという感じがしなくもないが、お湯が冷めていく湯気の揺らぎのような時間、魔法のようにゆっくりと見えてくる俳句を見つけ出す時間、ていねいさということ、急がないということの大切さ、届ける力になっていく何かはそんなふうに言葉を支えていくようにも思う。
幸福で悲しくてすべきことが見えない、貧しくて懸命で理由がわからない切なさ、私の俳句はどうしてか、そんな場所を行ったり来たりしながら届きたいものらしい。
冬はこと、緑茶が美味しい。
2014年11月24日月曜日
抹茶と和菓子のかけ算
by 梅津志保
以前、会社の茶道部に所属していたことがある。
作法は難しく、何度も先生に叱られて、へこんだ日もあった。
でも、季節毎の和菓子の美しさが毎回楽しみであった。春は新緑の明るい緑の葉、秋は深みのある赤い紅葉など、抹茶の緑とお菓子の色のかけ算が新橋のビルの一室に確かに季節の訪れを告げていた。お茶の渋さとお菓子の甘さのかけ算も最高である。
「豆句集 みつまめ」その5粒目(2014年立冬号)が完成した。自分の作品をふり返ると「視覚」から入ったものが多い。もっと味覚や聴覚、五感を研ぎ澄ました作品ができないものかと思う。
明日は季節を見つけに、季節を味わうために和菓子屋さんに行ってみよう、そして静かに和菓子と向き合ってみよう、そんな風に思う。
以前、会社の茶道部に所属していたことがある。
作法は難しく、何度も先生に叱られて、へこんだ日もあった。
でも、季節毎の和菓子の美しさが毎回楽しみであった。春は新緑の明るい緑の葉、秋は深みのある赤い紅葉など、抹茶の緑とお菓子の色のかけ算が新橋のビルの一室に確かに季節の訪れを告げていた。お茶の渋さとお菓子の甘さのかけ算も最高である。
「豆句集 みつまめ」その5粒目(2014年立冬号)が完成した。自分の作品をふり返ると「視覚」から入ったものが多い。もっと味覚や聴覚、五感を研ぎ澄ました作品ができないものかと思う。
明日は季節を見つけに、季節を味わうために和菓子屋さんに行ってみよう、そして静かに和菓子と向き合ってみよう、そんな風に思う。
2014年11月8日土曜日
届かない心まで
by 井上雪子
朝、起きてストーブをつけて机に向かう。 まだ、家族は眠っている、そんな この時間に読みたいと思った歌集を開く。
「突き通すやさしさなりき生きぬくことをやめた透明」
「純粋はかがやく色かなすきとおる風が捨てきた光かな」
ヴァン・ゴッホの眼を見つめる、 どこまでも見つめ返されながら佇む。 「ともしび色」。
『坂となる道』、 誰も通っていない朝の、 生れたての光みたいな歌たちが静かに並ぶ。 ゆっくりゆっくり、 大切なお菓子の箱を開けるように、 少しずつ読んできた。
「もうだれも信じることなく金魚鉢胸鰭のよく動く」
「白百合のほのかにつたう夕暮れの厨に匂う六月雄蕊」
「うるりこ」(細魚、メダカの古語)、「六月雄蕊」、 歌の途中、どこで切っても、 選び抜かれた言葉はそれはそれだけで独立して美しく、 いくつもの重なる思いが仄かに放たれ、 ふと異なる光のような複雑さを味わうための時間の中に ひとを立ち止まらせようとする。
あとがきには、 「その佇むときを、佇む力を私は持ち続けたいと思う。」とある。 声高になることなく、苦しさや悲しさから逃げないその意志の、 優しさであり、激しさである。
「傘さしかけてとおく夜の空をみるひとはやさしきことばを待てり」
どうしても届かない心に贈りたい歌がいくつもいくつも見つかる。
お会いしたことはないけれど、 みずほさん、と発音したくなる、 やわらかな言葉を真っ直ぐに力にして届けてくださろうとする作者の、そのていねいな時の過ごし方を思う。
文字通り小走りで職場を過ごす私なのだが、 佇むというちからを深く重く、じぶんのなかに置きながら、 今日こそはゆっくり息をしよう。
*高橋みずほ『坂となる道』(沖積舎、2013年)。「ともしび色」「うるりこ」「六月雄蕊」は章のタイトル。
朝、起きてストーブをつけて机に向かう。 まだ、家族は眠っている、そんな この時間に読みたいと思った歌集を開く。
「突き通すやさしさなりき生きぬくことをやめた透明」
「純粋はかがやく色かなすきとおる風が捨てきた光かな」
ヴァン・ゴッホの眼を見つめる、 どこまでも見つめ返されながら佇む。 「ともしび色」。
『坂となる道』、 誰も通っていない朝の、 生れたての光みたいな歌たちが静かに並ぶ。 ゆっくりゆっくり、 大切なお菓子の箱を開けるように、 少しずつ読んできた。
「もうだれも信じることなく金魚鉢胸鰭のよく動く」
「白百合のほのかにつたう夕暮れの厨に匂う六月雄蕊」
「うるりこ」(細魚、メダカの古語)、「六月雄蕊」、 歌の途中、どこで切っても、 選び抜かれた言葉はそれはそれだけで独立して美しく、 いくつもの重なる思いが仄かに放たれ、 ふと異なる光のような複雑さを味わうための時間の中に ひとを立ち止まらせようとする。
あとがきには、 「その佇むときを、佇む力を私は持ち続けたいと思う。」とある。 声高になることなく、苦しさや悲しさから逃げないその意志の、 優しさであり、激しさである。
「傘さしかけてとおく夜の空をみるひとはやさしきことばを待てり」
どうしても届かない心に贈りたい歌がいくつもいくつも見つかる。
お会いしたことはないけれど、 みずほさん、と発音したくなる、 やわらかな言葉を真っ直ぐに力にして届けてくださろうとする作者の、そのていねいな時の過ごし方を思う。
文字通り小走りで職場を過ごす私なのだが、 佇むというちからを深く重く、じぶんのなかに置きながら、 今日こそはゆっくり息をしよう。
*高橋みずほ『坂となる道』(沖積舎、2013年)。「ともしび色」「うるりこ」「六月雄蕊」は章のタイトル。
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